盗まれ、燃やされ、行方をくらまし、時には持ち主に不幸をもたらしたとされる絵がある。今回は、そんな「呪われた」あるいは「いわくつき」の運命をたどった絵画・彫刻を、20点集めてみた。
1. 《モナ・リザ》ダ・ヴィンチ(1503年頃)

1911年、ルーヴル美術館の元従業員ペルージャが、この絵を持ち出したまま、2年以上も行方をくらませた。皮肉にも、この盗難事件こそが、当時数ある名画の一つにすぎなかったこの絵を、世界一有名な絵画へと押し上げるきっかけになったとされている。

2. 《鏡のヴィーナス》ベラスケス(1647〜51年頃)
1914年、ロンドンで女性参政権運動家メアリー・リチャードソンが、肉切り包丁でこの絵に切りつけた。仲間の逮捕への抗議だったという。修復後も、2023年には環境活動家に保護ガラスを割られており、いまだ標的にされやすい絵であり続けている。
3. 《夜警》レンブラント(1642年)

美術史上、最も繰り返し攻撃されてきた絵の一つ。1911年にナイフで切りつけられ、1975年には元教師によって何度も切り刻まれた。この傷跡は修復後も一部残るという。1990年には酸をかけられる事件まで、さらに起きている。

4. 《ピエタ》ミケランジェロ(1498〜99年、彫刻)

1972年、地質学者ラズロ・トートが「私はキリストだ」と叫びながら、ハンマーでこの彫刻に15回打ちつけた。聖母の左腕は折れ、鼻とまぶたも損傷した。トートは精神障害と判断され、彫刻は修復を経て、防弾ガラス越しに展示されている。

5. 《ウェリントン公爵の肖像》ゴヤ(1812〜14年)

1961年、ロンドンで盗まれ、4年近くも行方不明だった。最終的に、バス運転手がテレビの受信料に不満を抱き、身代金目的で持ち出していたと判明している。この事件は後の映画『ドクター・ノオ』にも、盗難美術品として登場した。

6. 《叫び》ムンク(1893年、複数バージョン)

1994年、リレハンメル五輪の開会式当日に、オスロの美術館から盗まれた。犯人は「警備の甘さに感謝」というメモを残したという。この絵は3か月後に回収されたが、2004年には別バージョンが、武装強盗に再び奪われている。

7. 《合奏》フェルメール(1663〜66年頃)

1990年、警官を装った2人組が、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から、この絵を含む13点を、わずか81分で持ち去った。フェルメールの現存作品は世界に30数点しかなく、この絵は「史上最も高額な盗難美術品」ともいわれる。犯人は今も捕まっておらず、絵も戻っていない。

8. 《正義の裁判官たち》ファン・エイク(1934年盗難)

ベルギー・ヘントの大聖堂を飾る、多翼祭壇画の一パネルが、1934年に盗まれた。身代金を要求する手紙が届いたが、支払いは行われず、パネルはついに戻らなかった。今日展示されているのは、後年作られた複製画である。

9. 《聖フランチェスコと聖ロレンツォのいる降誕》カラヴァッジョ(1609年)

シチリア島の教会から、1969年に忽然と姿を消した。捜査ではシチリア・マフィアの関与が疑われているが、絵の行方は今日まで一切分かっていない。ネズミにかじられ、すでに失われたという説まで囁かれている。

10. 《青年の肖像》ラファエロ(1513〜14年頃)

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによってポーランドから略奪され、1945年以降、消息が途絶えている。戦後失われた美術品の中でも、最も重要な一点とされているが、今なお、その行方は発見されていない。

11. 《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I》クリムト(1907年)

ナチス政権下でユダヤ人一家から強奪された絵。戦後長らくオーストリア政府の所有物とされていたが、遺族が起こした国際訴訟の末、2006年、返還が認められた。この経緯は映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』の題材にもなった。

12. 《ヴァリーの肖像》シーレ(1912年)

同じくナチスによる略奪美術品で、戦後アメリカへ貸し出された際、遺族が返還を求めて提訴した。裁判は10年近く続き、最終的に2010年、和解金の支払いと引き換えに、所蔵先の美術館への帰属が確定している。

13. クリムト「学部の絵」連作(1900〜07年制作、1945年焼失)
ウィーン大学の依頼で制作された、哲学・医学・法学を象徴する3点の天井画。あまりに前衛的な内容から論争を呼んでいたが、大戦末期、ナチス撤退時に保管先の城で火災が起き、すべて焼失した。今日、白黒写真でしか確認できない。
14. 《オーヴェル=シュル=オワーズの眺め》セザンヌ(1879〜80年頃)

1999年の大晦日、オックスフォードの博物館で、花火の混乱に紛れて盗まれた。犯人は煙幕を焚いて逃走したとされる。絵は今なお見つかっておらず、館側のセキュリティの甘さが、当時大きな批判を浴びた。

15. 《ひなげし》ゴッホ(1887年)

カイロのハーリル美術館から、2010年に盗まれた。実はこの絵、1977年にも一度盗まれており、当時は発見されて美術館に戻っていた。しかし2度目の盗難以降、今日まで行方不明のままである。セキュリティのずさんさが批判された。

16. 《ウーマン・オーカー》デ・クーニング(1954〜55年)
1985年、アリゾナ大学美術館から盗まれ、実に32年間、行方が分からなくなっていた。2017年、ニューメキシコの民家で、遺品整理の最中に偶然発見される。盗んだ夫婦は既に他界しており、事件の全容は今も謎のままだ。
17. 《5本のひまわり》ゴッホ(1888年、通称「芦屋のひまわり」)

1920年、兵庫県芦屋の実業家・山本発次郎が購入し、自宅に飾っていた一枚。1945年8月6日、原爆投下と同じ日のアメリカ軍による芦屋空襲で、山本邸は焼失し、この絵も炎に消えた。額縁が重く、持ち出せなかったと伝えられている。

18. 《タラスコンへ向かう画家》ゴッホ(1888年)

アルルでの制作に向かう自らの姿を描いた、初期の自画像的な一枚。ドイツの博物館の保管庫に置かれていたが、第二次世界大戦末期の空爆で、他の収蔵品もろとも焼失したとされる。現存するのは、戦前の白黒写真のみである。

19. 《イワン雷帝とその息子イワン》レーピン(1885年)

激昂したイワン雷帝が我が子を杖で打ち、瀕死の重傷を負わせた直後を描いた絵。この絵は歴史上2度、実際に襲撃されている。1913年にナイフで切りつけられ、2018年には金属の棒で殴打され大きく破損した。修復には7年近くを要し、2024年、防弾ガラス越しに展示が再開された。

20. 《ダナエ》レンブラント(1636年)

1985年、サンクトペテルブルクの美術館で、精神的に不安定な男が、この絵に硫酸をかけ、ナイフで2回切りつけた。中央部分はほとんど判別できないほど溶け崩れ、修復には12年を要した。修復チームは「かつての姿はもう存在しない」と語っている。

よくある誤解
誤解①戦争で失われた名画は、いずれも記録が乏しく、実物を確認する術がない
《芦屋のひまわり》のように、戦前に撮影されたカラー写真が奇跡的に残っている例もあり、失われた姿を今日でも、ある程度確認することができる。
誤解②盗まれた名画は、いずれ必ず発見される
《叫び》やゴヤの《ウェリントン公爵の肖像》のように、無事に戻ってきた例がある一方、フェルメール《合奏》やカラヴァッジョの《降誕》、ラファエロの《青年の肖像》のように、何十年経っても行方が分からないままの作品も、数多く存在する。盗難と、戦火による焼失とでは、絵が戻ってくる可能性そのものが、根本的に異なる。
まとめ
こうして並べてみると、「呪い」という言葉で語られる運命にも、いくつかの種類があることが分かる。暴力的に傷つけられた絵、行方知れずのまま何十年も戻らない絵、そして戦火の中で、二度と取り戻せない形で失われた絵。共通しているのは、絵そのものの価値以上に、それをめぐる人間の欲望や、時に国家間の争いが、絵の運命を大きく左右してしまうということだ。
