《イワン雷帝とその息子》とは|検閲・刃傷沙汰・自殺まで招いた、ロシア美術史上最も物議を醸す一枚を追う

薄暗い部屋の絨毯の上、老いた皇帝が、我が子の血まみれの頭を抱きかかえています。その目には、怒りが去った後に押し寄せる恐怖と後悔が滲んでいます。《イワン雷帝とその息子イワン、1581年11月16日》(1883〜85年)は、ロシアの画家イリヤ・レーピンによる油彩画で、モスクワのトレチャコフ美術館が所蔵しています。発表直後には皇帝自らによって検閲を受け、その後も2度にわたって暴力の標的となった、ロシア美術史上でも屈指の波乱に満ちた作品です。

目次

基本情報

作者:イリヤ・レーピン(1844〜1930)
制作年:1883〜1885年
技法・素材:油彩・カンヴァス
サイズ:約199.5×254cm
所蔵:トレチャコフ美術館(モスクワ)
別名:《我が子を殺すイワン雷帝》
主題:イワン雷帝が怒りのあまり息子を打ち殺してしまった直後の場面

一言でいうと

《イワン雷帝とその息子》は、ロシアの皇帝イワン雷帝が、怒りに任せて息子イワン皇太子の頭を杖で打ち、致命傷を負わせてしまった直後の瞬間を描いた作品です。この出来事が実際に起きたのかどうかは、当時の史料の間でも記述が食い違っており、歴史家の間でも見解が分かれています。

制作背景

この絵のモデルには、レーピンの友人であり同じ移動派の画家グリゴーリー・ミャソエードフがイワン雷帝役として、そして作家フセヴォロド・ガルシン(彼自身も後の1888年に自ら命を絶つことになる人物です)が皇太子役として起用されました。皇帝は質素な黒い外套をまとい、皇太子は桃色のサテンの部屋着と、緑がかった青色の長靴という、対照的な装いで描かれています。

1885年に公開されると、この絵はその血なまぐさい内容ゆえに、同年4月、皇帝アレクサンドル3世自身の命令によって展示を禁じられました。これはロシアで初めて絵画が検閲された事例だったと言われています。すでに画家からこの絵を買い取っていた収集家パーヴェル・トレチャコフは、当初これを別室に保管したまま公開できずにいましたが、皇帝に近しい画家アレクセイ・ボゴリューボフの取りなしによって、禁止措置は3か月後の同年7月に解除されました。

見どころ

対照的な衣装が語る立場

黒い外套をまとった父イワンと、鮮やかな桃色の部屋着姿の息子との色彩の対比が、加害者と被害者という二人の立場を視覚的に際立たせています。皇帝の表情には、怒りが晴れた瞬間に押し寄せる、逃れようのない後悔と恐怖が刻み込まれています。

抱きかかえる腕の力

イワンは息子の頭をかき抱くように両腕で支えており、この身振りには、もはや取り返しのつかない事態への必死の抵抗が滲み出ています。皇太子の顔には、すでに生命の力を失いつつある虚脱した表情が浮かび、見る者に強い衝撃を与えます。

史実か寓意かという論争

イワン雷帝が本当に息子を手にかけたのかどうかについては、当時の記録そのものが一致していません。この絵を批判した人々の中には、レーピンが実際の歴史以上に皇帝を残忍な人物として描き、当時の権力そのものへの当てこすりとして利用したのではないかと指摘する者もいました。

評価と受容

この絵は完成直後から、激しい論争の的になり続けました。1913年1月、裕福な家具製造業者の息子で古儀式派の聖像画家だった28歳のアブラム・バラショフが、トレチャコフ美術館でこの絵にナイフで切りつけるという事件が起きています。「もう血はたくさんだ、もう死はたくさんだ」と叫びながら、彼は3度にわたって画面を切り裂き、皇太子の右目と皇帝の顔に深い傷を負わせました。当時68歳だったレーピン自身がこの修復に携わり、絵は無事に元の姿を取り戻しています。バラショフは精神に異常をきたしていたと判断され、投獄されることなく精神科病院に収容された後、影響力のあった父親の働きかけで釈放されました。なお、この事件の直後、トレチャコフ美術館の学芸員ゲオルギー・フルスロフが自ら命を絶っており、その死因はこの事件への責任を感じたためだと噂されましたが、これを裏付ける確たる記録は残っていません。

2018年5月25日には、閉館間際の館内で、酔った状態だったとされる男が、作品を保護する柵の支柱を使ってガラスを叩き割るという、2度目の破壊行為が起きています。この際にも絵は深刻な損傷を受け、大規模な修復が必要となりました。また2013年頃には、正教会系の団体がこの絵を歴史的に不正確で愛国的なロシア人を侮辱する内容だとして、常設展示からの撤去を美術館に求めましたが、この要求は拒否されています。

よくある誤解

誤解①「この絵に描かれた出来事は歴史的に確実な事実である」→ 実際は史料の間でも記述が一致していない
教科書的な史実の一場面として捉えられがちですが、実際にはイワン雷帝が本当に息子を殺めたのかどうかについて、当時の記録は食い違っており、今日でも歴史家の間で議論が続いています。

誤解②「この絵への破壊行為は一度だけ起きた出来事である」→ 実際は1913年と2018年の2度にわたって被害を受けている
1913年の刃傷事件だけが知られがちですが、実際にはこの絵は2018年にも館内で暴力の標的となっており、100年以上の間隔を挟んで2度も深刻な損傷を受けています。

FAQ

Q. 《イワン雷帝とその息子》とはどんな作品ですか?
A. レーピンが1883年から85年にかけて手がけた油彩画で、皇帝イワン雷帝が怒りのあまり打ち殺してしまった息子を抱きかかえる、直後の瞬間を描いています。トレチャコフ美術館が所蔵しています。

Q. なぜこの絵は発表当初に禁止されたのですか?
A. その血なまぐさい内容が、皇帝アレクサンドル3世自身の不興を買い、1885年4月から3か月間、ロシアで初めての絵画検閲として展示が禁じられました。

Q. この絵はどんな被害を受けてきましたか?
A. 1913年にはナイフで3度切りつけられ、2018年には金属製の支柱でガラスを割られるという、2度にわたる深刻な破壊行為の被害を受けています。

Q. 《イワン雷帝とその息子》はどこで見られますか?
A. ロシア・モスクワのトレチャコフ美術館が所蔵しています。

まとめ

一枚の絵がこれほどまでに人々の感情を揺さぶり続け、時には暴力にまで発展してしまうという事実は、レーピンが描き出した「怒りの果ての後悔」という主題が、いかに見る者の心の深いところに触れるものであるかを物語っています。皇帝の検閲から刃傷沙汰、そして現代の破壊行為まで、この絵をめぐる騒動の歴史そのものが、絵の内容と奇妙に呼応しているようにも見えます。

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