《ヒュラスとニンフたち》(1896年)は、イギリスの画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが、ギリシャ神話の一場面を描いた油彩画で、マンチェスター市立美術館が所蔵しています。睡蓮の浮かぶ暗い池のほとり、水を汲みに来た青年を、7人の水のニンフが取り囲み、池へと誘います。ラファエル前派の流れを受けた神話画の代表作であり、2018年に展示から一時撤去されて大きな議論を呼んだ作品としても知られています。
基本情報
作者はジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(1849〜1917)、制作年は1896年。技法は油彩・カンヴァスで、サイズは98.2×163.3cmです。画面の左下に、署名と年号が見えます。所蔵はマンチェスター市立美術館で、1896年に同館が画家から直接購入しました。翌1897年には、ロイヤル・アカデミーの夏季展に出品されています。
主題|ヒュラスの神話
ヒュラスは、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスに仕える、美しい若者です。オウィディウスをはじめとする古代の著述家が語るところによれば、水を汲みに泉へやって来たところ、水の精ニンフ(淡水のニンフ、ナイアス)に魅入られ、水のなかへ連れ去られてしまいます。悲劇的な若者の物語として、古くから多くの美術家が描いてきました。
見どころ|暗い池と、ニンフたちの視線

画面の右半分には、赤みを帯びた髪の若い女性たち、つまりニンフたちが、池の水面から身をのぞかせています。それぞれが花を髪に挿し、白い肌が、暗い水と茂みのなかで浮かび上がります。数えると7人。中央のニンフは、ヒュラスを見上げ、その腕に手を伸ばしています。後ろから彼を見つめる者、髪に手をやりながらこちらを見る者、遠くから様子をうかがう者。視線がばらばらに向けられていることが、画面にざわめくような動きを与えています。
左側では、青い衣に赤い帯をつけたヒュラスが、岸から身を乗り出しています。顔は影になり、表情ははっきりとは分かりません。ほっそりとした体を前に傾け、ニンフの手に引かれるまま、池に落ちようとしています。この絵が描かれる前には、2人のニンフを描いた習作も作られました。
見どころ|睡蓮と花の細部
池には、濃い緑の睡蓮の葉が浮かび、白い花が点々と咲いています。左右の岸には、黄色い花をつけた水草が伸び、画面の奥の木々は、暗い赤茶色の影に沈んでいます。全体が、暗くしっとりした色調に包まれ、そのなかでニンフたちの肌と、髪に挿された黄色や白の花だけが、くっきりと浮かびます。
ウォーターハウスは、画面の中に複数の視線と動きを巧みに配置しつつ、植物や水面の細部も丁寧に描き込んでいます。神話の場面が、実際に目の前の池で起きているような臨場感を生んでいます。
2018年の撤去
2018年1月、マンチェスター市立美術館は、この絵を展示室の壁から外しました。美術家ソニア・ボイスのプロジェクトの一環として、同館のコレクションの展示や解釈のあり方をめぐる議論を促すために行われたものです。壁に残された空白の場所には、来場者が意見を書いて貼れるよう、付箋が用意されました。ミュージアムショップからは、この絵の絵葉書も撤去されました。
同館のキュレーターは、展示室の解説で、ここに並ぶ作品が女性を「受動的な飾り」や「ファム・ファタール」として描いていると述べていました。しかし、この撤去には、検閲だ、清教徒的だ、政治的な正しさの行き過ぎだといった批判が相次ぎました。絵は約1週間後に、元の場所へ戻されました。
この出来事は、過去の名画を、現代の価値観のなかでどのように展示し、語るべきかという問いを、広く投げかけました。
評価と解釈
本作は、危険な女性の性の象徴として、男を惑わすファム・ファタールの主題に連なるものと、長く解釈されてきました。一方で、画面のなかのヒュラスは抵抗する様子を見せず、ニンフたちも、あからさまに誘惑するのではなく、どこか戸惑ったような視線を向けているように見えます。この両義性が、本作を単純な道徳画にも、単純な官能画にもしていません。
まとめ
《ヒュラスとニンフたち》は、暗い池と、水面に浮かぶ花、人ならざる者たちの視線によって、神話の一瞬を静かに描いた作品です。120年以上を経て、展示のあり方をめぐる議論の中心になったことも含めて、見る者と見られる者の関係を考え続けさせる絵だといえます。

