ラファエロ前派とは|「ラファエロ以前」に理想を求めた7人の反逆を徹底解説

19歳、20歳、21歳という若さの3人の美術学校生が、王立美術院そのものへの反逆を密かに企てる。彼らが目指したのは、ルネサンスの巨匠ラファエロが確立した美の規範を否定し、それ以前の時代にこそ真の芸術があったと信じることだった。この記事では、ラファエロ前派兄弟団がどのように結成され、どのような理想を掲げていたのかを見ていく。

目次

定義

ラファエロ前派とは、1848年、イギリスの若い画家・詩人・批評家たちによって結成された芸術運動を指す。正式名称は「ラファエロ前派兄弟団(PRB)」であり、ルネサンス期の巨匠ラファエロ以降のヨーロッパ美術、とりわけ王立美術院が体現していた理想化された画風を否定し、それ以前の中世・初期ルネサンス美術に見られる、自然への忠実な観察と道徳的な真剣さを取り戻すことを目指していた。

具体例

ラファエロ前派の実像は、以下のような具体的な事実からうかがえる。

  • 1848年9月、ジョン・エヴァレット・ミレイの実家であるロンドンのガウワー街83番地で、兄弟団が結成された
  • 結成時のミレイは19歳、ロセッティは20歳、ハントは21歳という若さだった
  • 最終的に兄弟団は7人のメンバーで構成され、1849年からは作品に「PRB」の頭文字を記して発表するようになった
  • 1851年、批評家ジョン・ラスキンが『タイムズ』紙への投書を通じて、この運動を擁護した

背景

19世紀半ばのイギリス美術界は、王立美術院の創設者サー・ジョシュア・レノルズが確立した規範、すなわち理想化された構図と滑らかな仕上げを重んじる伝統に支配されていた。王立美術院の学生だったウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ、そしてダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの3人は、この規範に強い不満を抱いていた。彼らはレノルズを「スロシュア(泥沼)卿」と皮肉り、その画風を「スロシー(だらしない)」、すなわち安易で紋切り型のものだと批判した。彼らが理想としたのは、ラファエロ以前の中世・初期イタリアやネーデルラントの絵画に見られる、自然を忠実に観察し、道徳的にも真剣な主題を扱う姿勢だった。

展開

兄弟団の結成

1848年9月、この3人はミレイの実家であるガウワー街83番地に集まり、正式に「ラファエロ前派兄弟団」を結成した。彼らはまもなく、ロセッティの弟であるウィリアム・マイケル・ロセッティ(兄弟団の書記を務めた)、画家ジェイムズ・コリンソン、批評家兼画家のフレデリック・ジョージ・スティーヴンズ、そして彫刻家トマス・ウルナーを加え、7人からなる秘密結社としての体裁を整えていった。

反発を呼んだ挑戦

1849年、ロセッティ・ミレイ・ハントの3人は、それぞれの作品に「PRB」という頭文字を添えて初めて発表した。この試みは、当初激しい非難にさらされることになる。彼らの画風は「稚拙」だと酷評され、「ラファエロ以前」を名乗ること自体が、350年にわたる美術史への傲慢な挑発とみなされた。さらに彼らの名称に漂うイタリア風の響きは、ローマ・カトリック教会への共感の疑いすら招いている。彼らは1850年、詩や短編小説、挿絵を収めた機関誌『ザ・ジャーム』を創刊したが、この雑誌はわずか4号で廃刊となった。

ラスキンという後ろ盾

1851年、著名な美術批評家ジョン・ラスキンが、『タイムズ』紙への投書を通じてこの運動を擁護したことで、状況は大きく好転していく。ラスキン自身は当初ミレイの作品を必ずしも好んでいなかったとされるが、彼が唱えていた「自然への忠実(トゥルース・トゥ・ネイチャー)」という理念は、まさにこの兄弟団が目指していた芸術観と共鳴するものだった。この後ろ盾を得て、ラファエロ前派はヴィクトリア朝時代における最も急進的な現代美術運動としての地位を確立していく。

兄弟団の解散とその後

しかしこの兄弟団としての結束は、結成からわずか5年ほどで事実上崩壊した。皮肉なことに、この解散の背景には、ラスキン自身の私生活も絡んでいたとされる。ラスキンの妻エフィーは、夫との旅行に同行したミレイと恋に落ち、夫との結婚が未完成だったことを理由に婚姻を無効とし、後にミレイと再婚している。兄弟団としての活動こそ終わりを迎えたが、ロセッティやミレイをはじめとするメンバーたちは、その後も個々に独自の画風を発展させ続けた。

現代への影響

ラファエロ前派が確立した、鮮やかな色彩と自然光への忠実な描写、そして文学や聖書に基づく真剣な主題の追求という美学は、後のイギリス美術に長く影響を残し続けている。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスをはじめとする後続の画家たちも、この様式を引き継ぎながら独自の作品を生み出していった。彼らの運動は、印象派や後期印象派の台頭とともにその影響力を次第に失っていったが、19世紀美術における反アカデミズムの先駆的な試みとして、今日も高く評価され続けている。

よくある誤解

誤解①「ラファエロ前派は、ラファエロ自身の作品を否定し嫌っていた」→ 実際はラファエロ以降の美術の理想化された伝統を問題視していた

名称の響きから、ラファエロ本人への個人的な反発だったと思われがちだが、実際には彼らが問題視していたのは、ラファエロ以降のヨーロッパ美術に定着した理想化と紋切り型の表現であり、彼らが目指したのは、それ以前の時代に見られた、より自然に忠実な表現への回帰だった。

誤解②「ラファエロ前派は、結成当初から広く支持される芸術運動だった」→ 実際は当初激しい批判にさらされ、ラスキンの擁護によってようやく評価が定まった

ヴィクトリア朝美術を代表する運動として知られていることから、当初から支持を集めていたと思われがちだが、実際には結成当初、彼らの作品は稚拙で傲慢だと酷評されており、1851年にラスキンが公に擁護するまで、その評価は極めて不安定なものだった。

FAQ

Q. ラファエロ前派とはどんな運動ですか?
A. 1848年に結成されたイギリスの芸術運動で、ラファエロ以降の理想化された美術の伝統を否定し、それ以前の中世・初期ルネサンス美術に見られる自然への忠実な観察を取り戻すことを目指しました。

Q. ラファエロ前派の創設者は誰ですか?
A. ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの3人が中心となり、後に4人が加わって7人の兄弟団となりました。

Q. なぜラファエロ前派は当初激しく批判されたのですか?
A. 彼らの画風が稚拙だとみなされ、「ラファエロ以前」を名乗ること自体が美術史への傲慢な挑発と受け止められ、さらに名称のイタリア風の響きがカトリックへの共感の疑いまで招いたためです。

Q. なぜラファエロ前派は解散したのですか?
A. 結成から約5年でメンバーそれぞれが独自の道を歩み始め、批評家ラスキンの私生活をめぐる出来事も絡み合いながら、兄弟団としての結束は自然に崩れていきました。

まとめ

19歳、20歳、21歳という若さの3人が、王立美術院という巨大な権威に真っ向から挑んだ。彼らが求めたのは、進歩ではなく、あえて過去へと立ち返ることだった。ラファエロ以前の時代にこそ真実の芸術があると信じたこの逆説的な姿勢こそ、ヴィクトリア朝美術の中で、彼らを最も急進的な存在として際立たせた理由だったのかもしれない。

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