世界に影響を与えた写真20選 ── 1932年から2015年までの記録

一枚の写真が、言葉よりも速く、世界の見方を変えることがある。戦争、革命、飢餓、宇宙、難民。時代の節目に撮られた写真は、やがてその出来事そのものの象徴となり、のちの世代が歴史を思い浮かべるときの「顔」になってきた。ところが、その多くは、誰が撮ったのか、誰が写っているのか、どこまでが事実なのかをめぐって、今も議論が続いている。ここでは、20世紀から21世紀にかけて世界に影響を与えた写真20点を、撮影された年の順にたどる。

1. 《摩天楼の上の昼食》(Lunch atop a Skyscraper)撮影者未確定(1932年)

ニューヨークのロックフェラー・センター建設現場で、11人の鉄骨工が、地上240メートルを超える梁に腰かけて昼食をとる。世界恐慌のさなかに摩天楼を建て続ける、近代都市の象徴として知られる。ただしこれは偶然の一瞬ではなく、新しい高層ビルを宣伝するために手配された撮影だった。撮影者は長くチャールズ・エベッツとされてきたが、当日は少なくとも3人の写真家が現場にいたことが分かっており、今も確定していない。写っている男たちのうち、身元が確認されているのも2人にとどまる。

2. 《移民の母》(Migrant Mother)ドロシア・ラング(1936年)

1936年3月、カリフォルニア州ニポモの豆摘み労働者のキャンプで、ラングはわずか10分ほどのあいだに6枚の写真を撮った。その最後の1枚が、子どもたちに囲まれて遠くを見つめる母親の姿である。世界恐慌下の貧困を伝える写真として広く知られるが、女性の名が分かったのは、撮影から40年以上たった1978年のことだ。フローレンス・オーウェンズ・トンプソン、当時32歳。地元紙の記者が探し当てた。トンプソンはこの写真に複雑な思いを抱いていたと伝えられ、画面の端に写っていた親指は、のちにネガから消されている。

3. 《ワルシャワ・ゲットーの少年》(Warsaw Ghetto Boy)撮影者不詳(1943年)

1943年4月から5月にかけて、ナチス・ドイツがワルシャワ・ゲットーの蜂起を鎮圧した際、親衛隊の司令官ストロープが作らせた報告書に収められた一枚。両手を上げる少年と、銃を向ける兵士たちが写っている。報告書は、ストロープ自身の指揮ぶりを誇示するためのものだったが、のちにニュルンベルク裁判の証拠として提出され、加害の記録として残ることになった。撮影者は分かっておらず、少年が誰なのかについても、複数の人物が名乗り出たものの、確証は得られていない。

4. 《硫黄島の星条旗》(Raising the Flag on Iwo Jima)ジョー・ローゼンサル(1945年)

1945年2月23日、硫黄島の摺鉢山の頂上で、海兵隊員たちが星条旗を立てる。ローゼンサルが写したのは、実は2回目の掲揚で、最初の小さな旗をより大きな旗に取り替える場面だった。6人のうち3人は、島での戦闘で命を落としている。写真は米国で大きく報じられ、ピューリッツァー賞を受け、ワシントン郊外の海兵隊戦争記念碑のモデルにもなった。写っている人物の特定は、のちに2度改められている。2016年に海兵隊は、衛生兵ジョン・ブラッドリーが写っていないと発表し、2019年には、ルネ・ガニオンも別の隊員だったと認めた。

5. 《ライヒスタークに翻る赤旗》(Raising a Flag over the Reichstag)エフゲニー・ハルデイ(1945年)

1945年5月2日、ベルリンの国会議事堂の屋上に、ソ連の赤旗が掲げられる。ソ連の通信社タスの写真家ハルデイが、硫黄島の写真に刺激を受けて撮ったとされる。赤旗は叔父の仕立屋がテーブルクロスで縫ったものと伝えられ、場面も戦闘の最中ではなく、制圧後に兵士たちに演じさせたものだった。さらに掲載前には、背景に煙が書き足され、兵士の腕時計の一つが消された。略奪を疑わせないための修正とされる。それでも写真は、ナチス・ドイツの敗北を告げるものとして、世界に広まった。

6. 《V-Jデーのタイムズ・スクエア》(V-J Day in Times Square)アルフレッド・アイゼンスタット(1945年)

1945年8月14日、日本の降伏が伝えられたニューヨークのタイムズ・スクエアで、水兵が通りがかりの女性に口づけをする。ライフ誌の写真家アイゼンスタットが撮り、戦争の終わりを喜ぶ瞬間として広く知られるようになった。二人は互いに見知らぬ他人で、写っているのが水兵ジョージ・メンドンサと、歯科助手のグレタ・ジマー・フリードマンだと確認されたのは、ずっと後のことになる。フリードマンは2005年の聞き取りで、口づけは自分が望んだものではなかったと語っており、近年は同意の観点から見直す議論もある。

7. 《糸車のガンジー》(Gandhi at the Spinning Wheel)マーガレット・バーク=ホワイト(1946年)

1946年、ライフ誌の取材でインドを訪れたバーク=ホワイトが、ガンジーを撮影した一枚。糸車の脇で、新聞の切り抜きに目を通す姿が写っている。撮影を許される前に、彼女自身が糸車の使い方を覚えさせられたという。糸車は、自分たちの手で布を紡ぐという、独立運動の象徴だった。ただし、この写真はもともとの取材記事には掲載されていない。ガンジーが暗殺された直後の1948年2月、ライフ誌の追悼特集で大きく扱われ、その姿を代表する一枚になった。

8. 《英雄的ゲリラ兵》(Guerrillero Heroico)アルベルト・コルダ(1960年)

1960年3月5日、ハバナで開かれた、港で起きた貨物船の爆発事故の犠牲者を悼む式典で、新聞社の写真家コルダが、チェ・ゲバラを撮った。当時、新聞はこの写真を採用しなかったとされる。世界に広まったのは、ゲバラの死後の1967年で、イタリアの出版人がポスターに用いたことがきっかけだった。以来、世界で最も複製された写真の一つとなり、革命と反体制文化の象徴になっている。コルダはこの写真を無償で提供したとされ、2000年にウォッカの広告に使われた際には訴訟を起こし、得た和解金5万ドルをキューバの医療に寄付した。

9. 《炎の僧》(The Burning Monk)マルコム・ブラウン(1963年)

1963年6月11日、サイゴンの交差点で、僧ティック・クアン・ドックが、カトリックを優遇する南ベトナムのジエム政権による仏教徒への弾圧に抗議し、自ら火を放った。事前に知らされた外国人記者のうち、現場に来たのはAP通信のブラウンだけだった。写真は世界中の新聞の一面を飾り、1963年の世界報道写真年間大賞に選ばれた。ケネディ米大統領は、これほど世界に感情を呼び起こした報道写真はないと語ったと伝えられる。米国のジエム政権への支持は揺らぎ、同年11月、ジエムはクーデターで倒されて殺害された。

10. 《サイゴンでの処刑》(Saigon Execution)エディ・アダムズ(1968年)

1968年2月1日、テト攻勢のさなかのサイゴンで、南ベトナムのグエン・ゴク・ロアン将軍が、捕らえたベトコンの男を路上で銃殺した。その瞬間をAP通信のアダムズが捉え、写真は1969年のピューリッツァー賞を受ける。米国の世論に衝撃を与え、反戦の空気を強めたとされる。だがアダムズ自身は、この写真が事実の一部しか伝えていないと考えるようになった。1998年にロアンが亡くなると、タイム誌に文章を寄せ、自分の写真が将軍の人生を壊したと悔やんでいる。ロアンとその家族には、直接謝罪もした。

11. 《地球の出》(Earthrise)ウィリアム・アンダース(1968年)

1968年12月24日、アポロ8号の飛行士アンダースが、月の周回軌道上から撮影した。月の地平線の向こうに、青い地球が昇る。もともとの任務は月面の撮影で、地球が視界に現れたのは、ほとんど不意のことだった。急いでカラーフィルムを探し、撮られた一枚である。自然写真家のギャレン・ローウェルは、これを史上最も影響力のある環境写真と評した。アンダースは50年後、月を探検しに行ったのに、発見したのは地球だったと語っている。

12. 《月面のバズ・オルドリン》(Buzz Aldrin on the Moon)ニール・アームストロング(1969年)

1969年7月20日、アポロ11号の月面着陸の際に、船長のアームストロングが、同乗のオルドリンを撮影した。金色のバイザーには、撮影者のアームストロングと着陸船イーグルが映り込んでいる。月面での写真のほとんどをアームストロングが撮ったため、人類で最初に月に立った彼自身の姿は、ほとんど写っていない。この写真は、ライフ誌とナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾り、宇宙時代の象徴になった。

13. 《ケント州立大学銃撃事件》(Kent State Shootings)ジョン・ポール・ファイロ(1970年)

1970年5月4日、米国オハイオ州のケント州立大学で、ベトナム戦争のカンボジアへの拡大に抗議する学生たちに、州兵が発砲し、4人が死亡、9人が負傷した。当時この大学で写真ジャーナリズムを学んでいたファイロが、倒れた学生のかたわらにひざまずいて叫ぶ少女を撮った。少女は14歳の家出少女で、大学生ではなかった。写真は1971年のピューリッツァー賞を受賞し、全米で学生の抗議が広がるなか、分断された国の象徴となった。のちに編集者が、少女の頭の後ろにあったポールを消したが、1995年まで誰も気づかなかった。

14. 《戦争の恐怖(ナパーム弾の少女)》(The Terror of War / Napalm Girl)撮影者をめぐり論争中(1972年)

1972年6月8日、南ベトナムのチャンバン近郊で、ナパーム弾の攻撃を受け、裸で逃げる9歳のキム・フックが写された。AP通信のこの写真は、1973年にピューリッツァー賞と世界報道写真大賞を受けている。裸の子どもの写真を配信するかどうか、APの支局内で議論になったという。撮影者は長年、AP通信の写真家ニック・ウトとされてきたが、2025年に公開されたドキュメンタリー映画『ザ・ストリンガー』が、現地の協力者グエン・タン・ギェだと主張した。APは調査の結果、ウトの名を外すだけの確証はないとしたが、世界報道写真財団は同年、撮影者の帰属を保留した。写真そのものの重みは、揺らいでいない。

15. 《アフガンの少女》(Afghan Girl)スティーブ・マッカリー(1984年)

パキスタンのナシル・バーグ難民キャンプで、ソ連軍の占領下のアフガニスタンから逃れてきた少女が、鋭い緑色の瞳でカメラを見つめる。1985年6月号のナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾り、難民問題を象徴する顔になった。少女の名がシャルバート・グラだと分かったのは、2002年にマッカリーが再び彼女を探し出したときである。グラは2016年、偽造の身分証を使った疑いでパキスタン当局に摘発され、アフガニスタンへ送還された。さらに2021年、タリバンの政権掌握後に、イタリアへ退避している。

16. 《タンクマン》(Tank Man)ジェフ・ウィドナーほか(1989年)

1989年6月5日、北京の長安街で、白いシャツの男が、買い物袋を提げたまま、戦車の隊列の前に立ちふさがった。天安門広場の民主化運動が武力で鎮圧された翌日である。近くのホテルのバルコニーから、AP通信のウィドナーをはじめ、複数の写真家が撮影している。男の身元と、その後の消息は、今も分かっていない。中国国内ではこの写真は検閲の対象となり、広く知られていない。1998年、タイム誌は、この「無名の反逆者」を、20世紀で最も影響力のあった100人のひとりに選んだ。

17. 《ハゲワシと少女》(The Vulture and the Little Girl)ケビン・カーター(1993年)

スーダン南部のアヨドで、国連の食糧配給所へ向かう途中、飢えて倒れこむ幼い子の背後に、ハゲワシが降り立つ。1993年3月26日にニューヨーク・タイムズ紙に掲載されると、大きな反響を呼び、子どもは助かったのかという問い合わせが殺到した。同紙は数日後、子どもには立ち去る力があったが、その後の運命は分からないと伝えている。カーターは1994年にピューリッツァー賞を受けたが、「なぜ助けなかったのか」という批判も浴び続けた。後年、子どもの父親が、写っていたのは少女ではなくコン・ニョンという男の子で、このときは生き延びたと明らかにしている。カーターは、受賞から4か月足らずで、33歳で自ら命を絶った。

18. 《墜落する男》(The Falling Man)リチャード・ドリュー(2001年)

2001年9月11日午前9時41分、AP通信のドリューが、世界貿易センタービル北棟から落下する男性を撮った。連続して撮られた12枚のうちの1枚である。翌日、世界中の新聞に掲載されたが、読者から強い批判が寄せられ、やがてメディアから姿を消していく。のちにジャーナリストのトム・ジュノドが、雑誌『エスクァイア』で男性の身元を追ったが、確定には至っていない。この写真は、9.11の犠牲者の一人ひとりに名前と人生があったことを改めて突きつける一枚として、見直されてきた。

19. 《アブグレイブの「覆面の男」》(The Hooded Man)米軍関係者(2003年)

イラクのアブグレイブ刑務所で、頭に袋をかぶせられ、箱の上に立たされ、両手に電線をつながれた男性。米軍の下士官が2003年11月4日に撮影した写真は、2004年4月28日、米CBSの番組『60ミニッツII』で初めて公になり、米軍による収容者虐待の象徴となった。数週間後には、雑誌『ニューヨーカー』も報じている。写っている男性は、長く別の人物とされていたが、のちにアブドゥ・フセイン・サード・ファレハだと伝えられた。関与した兵士は有罪となったが、責任が末端の兵士にとどまったという批判も根強い。

20. 《アラン・クルディ》(Alan Kurdi)ニリュフェル・デミル(2015年)

2015年9月2日、トルコのボドルムの海岸に、シリアから逃れてきた2歳の男の子、アラン・クルディが打ち上げられた。ギリシャの島へ渡ろうとしたボートが転覆し、兄と母とともに亡くなった。父親は生き残った。トルコの通信社ドアン通信の写真家デミルが撮った写真は、「海岸に打ち上げられた人間性」を意味するハッシュタグとともに、SNSで瞬く間に拡散した。デミルは、物言わぬ体の叫びを届けたかったと語っている。欧州の難民危機への関心は急激に高まり、一家がカナダを目指していたことから、カナダの総選挙でも争点になった。ただ、この写真が政策を実際に変えたのかについては、今も評価が分かれている。

よくある誤解

誤解① 報道写真は、偶然の一瞬をそのまま切り取ったものである
《摩天楼の上の昼食》は宣伝のために手配され、《ライヒスタークに翻る赤旗》は制圧後に再現されたうえで加工も加えられた。《移民の母》でも、親指がネガから消されている。一方で、《硫黄島の星条旗》は、よく演出だと誤解されるが、2回目の掲揚の場面をそのまま撮ったものである。写真が事実を写すことと、その写真が偶然の産物であることは、同じではない。

誤解② 写真に付いた題名や説明は、そのまま事実を伝えている
《ハゲワシと少女》に写っていたのは、のちに少年だったと分かった。《硫黄島の星条旗》の人物は2度書き換えられ、《ナパーム弾の少女》の撮影者も、今は争われている。《ワルシャワ・ゲットーの少年》や《タンクマン》のように、誰なのか分からないままの写真もある。有名な写真ほど、長く語られるうちに、確かな事実と思い込みが入り混じりやすい。

まとめ

20点を並べると、写真は起きたことを写す記録でありながら、意味が後から与えられていく存在でもあることが分かる。戦争や抗議、飢餓や難民を伝える写真は、見る人の感情を動かし、世論を変えてきた。その一方で、撮られた人の意思、撮った人の責任、伝わった意味と事実とのずれが、繰り返し問われてきた。写真を見るという行為は、写ったものを見ると同時に、それが誰によって、何のために撮られ、どう語られてきたかを問うことでもあるのだろう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!