ポカホンタスとは誰だったのか|植民地時代アメリカを生きた実像と、作られ続けた「物語」

ポカホンタス(1596年頃〜1617年)は、北米ヴァージニア一帯を支配したポウハタン連合の最高首長ワフンセナカウ(通称ポウハタン)の娘です。イングランド最初の恒久植民地ジェームズタウンとの接触のただなかを生き、わずか21年ほどの生涯を終えました。彼女ほど「実像」と「物語」の距離が大きい歴史人物は稀であり、その落差自体が研究対象となっています。

名前について

「ポカホンタス」は本名ではなく、「いたずらっ子」「お転婆」ほどの意味をもつ愛称です。本名はマトアカ、別名アモヌートとも伝わります。ポウハタンの人々には本名をみだりに外部へ明かさない慣習があったため、入植者たちには愛称だけが知られました。のちに洗礼を受けてからはレベッカというキリスト教名を名乗り、晩年の肖像画(1616年の銅版画)には「マトアカ、別名レベッカ」と刻まれています。一人の女性が三つの名を持ったこと自体が、二つの世界の間を生きた彼女の人生を象徴しています。

ポウハタン連合という世界

父ワフンセナカウは、チェサピーク湾岸の約30の集団を束ねた広域的な首長制連合の頂点にいました。ポカホンタスは多くの子をもつ首長の娘の一人であり、母の身分から政治的な継承権を持つ立場ではなかったとみられています。ただし首長の娘として、外交の場に姿を見せる役割は担っていました。1607年にジェームズタウンが建設されると、10歳前後の彼女は使節団に同行して砦を訪れ、食糧をめぐる交渉や捕虜交換の場に現れる存在として入植者の記録に登場するようになります。飢餓に苦しむ植民地に食糧がもたらされた際の思い出から、ジョン・スミスは後年、彼女を「植民地を救った」と回想しました。

「ジョン・スミス救出」伝説の検証

最も有名な逸話は、1607年末に捕らえられたスミスが処刑されかけたとき、少女ポカホンタスが身を挺して救ったという物語です。しかしこの場面は、スミスが事件直後の1608年に書いた報告(『真実の関係』)には登場せず、彼女がイングランドで著名人となった後の1616年の書簡、そして1624年の『ヴァージニア総史』で初めて詳述されます。このため研究者の間では、(1)後年の創作ないし脚色とする説、(2)首長への服属を演出する儀礼的な「擬似処刑」をスミスが命の危機と誤解したとする説、が有力です。スミスは他の土地でも「現地の身分ある女性に救われた」型の逸話を繰り返し書いており、当時流行した冒険譚の定型だった点も指摘されています。いずれにせよ、当時11歳前後の少女とスミスの間に恋愛関係があったとする後世の脚色は、史料上の根拠を欠きます。

拉致・改宗・結婚

1609年頃から入植者とポウハタン連合の関係は悪化し、第一次英・ポウハタン戦争と呼ばれる状態に入ります。1613年、サミュエル・アーガル船長は、ポトマック川流域に滞在していたポカホンタスを、現地の首長を仲介役に船へ誘い出して拉致し、人質として抑留しました。マタポニ族に伝わる口承では、彼女にはこの頃コカムという先住民の夫がいたとされます(この点は英側史料が乏しく、研究者の評価は分かれています)。

彼女は入植地ヘンリカスに移され、牧師アレグザンダー・ウィテカーのもとでキリスト教の教育を受け、洗礼を受けてレベッカとなります。この抑留中に、タバコ栽培で植民地の経済的基盤を築きつつあった入植者ジョン・ロルフと出会い、1614年4月に結婚しました。ロルフが総督代理に宛てた書簡には、欲望ではなく「植民地の利益と彼女の魂の救済のため」に結婚するという弁明が長々と綴られており、この結婚が個人的感情と植民地政策の両方に属する出来事だったことを示しています。結婚は約8年間の停戦、いわゆる「ポカホンタスの和平」をもたらしました。彼女の改宗と結婚が自発的だったのか、囚われの身での適応だったのかは史料からは判別できず、現代の研究はこの「沈黙」自体を重く見ています。

イングランド渡航と死

1616年、ヴァージニア会社は植民地事業の宣伝のため、レベッカ・ロルフとなった彼女を夫と幼い息子トマス、十数名の同胞とともにイングランドへ招きます。「改宗した首長の娘」は、先住民の教化という植民地事業の大義を体現する広告塔でした。彼女はロンドン社交界で歓迎され、1617年1月には宮廷仮面劇の観客として国王ジェームズ1世夫妻と同席しています。滞在中、かつてのスミスと再会した際には、動揺し、彼を厳しく責めたとスミス自身が記しており、この場面は彼女自身の感情がわずかに史料に残った数少ない瞬間として注目されます。

1617年3月、帰国の途につきますが、テムズ川を下った直後に重い病(肺炎、結核、赤痢など諸説)に倒れ、グレーヴゼンドで死去しました。享年21歳前後。「すべての人はいつか死ぬ。子どもが生きていれば十分」という言葉を残したと伝えられます。同地のセント・ジョージ教会に埋葬されましたが、後の火災で墓の正確な位置は失われました。マタポニ族の口承には毒殺説も伝わりますが、これを裏づける文書史料はありません。

死後に作られた「ポカホンタス」

彼女の死後、その人生は繰り返し書き換えられていきます。19世紀の米国では、独立後の国家が自らの起源神話を必要とするなかで、「白人入植者を愛し、その文明を受け入れた気高い先住民の娘」というロマン化された像が絵画・戯曲・教科書を通じて拡散しました。連邦議会議事堂のロタンダには彼女の洗礼を描いた大画面が掲げられ、先住民の土地収奪を「自発的な同化」の物語へと読み替える装置として機能しました。

一方、ヴァージニア州では息子トマスの子孫が名門(「ヴァージニアの第一家族」)を形成し、1924年の人種純血法では、白人の定義に「ポカホンタスの血を引く者は例外とする」という条項(いわゆるポカホンタス例外)が設けられるという、米国人種主義史の屈折を示す事例も生まれました。1995年のディズニー映画は成人女性ポカホンタスとスミスの恋愛を描き、世界的なイメージを決定づけましたが、先住民団体や歴史家からは史実との乖離が強く批判されています。

現代の研究と先住民の視点

近年の歴史学は、カミラ・タウンゼンドらの研究に代表されるように、英側史料の行間からポウハタン側の論理を復元する方向へ進んでいます。そこで浮かぶのは、「入植者に憧れた少女」ではなく、首長の娘としての役割を担い、拉致という暴力の後も限られた選択肢のなかで一族と自分の子の未来を図った、政治的な行為者としての姿です。また彼女の同胞であるマタポニ族・パムンキー族は、自らの口承を「聖なる歴史」として発信しており、文書史料中心の歴史学とオーラルヒストリーをどう突き合わせるかという方法論上の論点も提起されています。

まとめ

史料に残るポカホンタスの人生は、外交の場に立った少女時代、拉致と抑留、改宗と結婚、異国での客死という、植民地化の暴力と交渉が凝縮された21年です。他方、彼女の名で流通してきた物語の多くは、スミスの回想と後世の国家的・商業的な需要が作り上げたものでした。「誰が、何のために彼女を語ってきたのか」を問うことこそが、ポカホンタスという主題の核心だといえます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!