《処女喪失》(1890〜91年)は、ポール・ゴーギャンがタヒチへ旅立つ直前に描いた油彩画で、米国バージニア州ノーフォークのクライスラー美術館が所蔵しています。ブルターニュの海辺の野原に横たわる裸の若い女性と、その胸元に前足をかけるキツネ。題名が告げる主題を、物語ではなく象徴の言葉だけで描いた、ゴーギャン象徴主義の代表作のひとつです。
基本情報
作者はポール・ゴーギャン(1848〜1903)、制作年は1890〜91年。技法は油彩・カンヴァスで、サイズは約90×130cmです。所蔵はクライスラー美術館で、1971年にウォルター・P・クライスラー・ジュニアから寄贈されました。原題はフランス語で「La Perte du pucelage」、英題は「The Loss of Virginity」です。
制作背景|パリで描かれたブルターニュ
ゴーギャンは株式仲買人の仕事を辞めたのち、近代社会に染まっていない「野蛮で原始的」な世界を求めて、ブルターニュ地方に移りました。宗教的な神話や迷信に着想を得て、儀礼や通過儀礼を描くようになるのも、この時期のことです。
1890年には、海辺の村ル・プールデュの宿に滞在しています。本作の背景に見える岬は、そこで描いた風景(《収穫、ル・プールデュ》)を簡略化して用いたもので、絵そのものは、1890〜91年の冬にパリで描かれたとされています。完成後まもなく、ゴーギャンは1891年にタヒチへ旅立ちました。
モデルは、当時のゴーギャンの恋人ジュリエット・ユエとされています。ユエはその後、ゴーギャンの子を産んだと伝えられます。
見どころ|帯のように重なる色彩

画面は、水平に近い色の帯が積み重なるように構成されています。手前に茶色い地面、その上に横たわる白い身体、背後に濃い緑の草むら、赤く塗られた野原、緑の丘、深い青の海、そして淡い空。どの色面も、自然の色を写すというより、平らで鮮やかな色の板のように置かれています。
白い身体は、赤と緑という強い色の対比のなかで、ひときわ際立ちます。女性は仰向けに身体を伸ばし、頭を画面左へ向けたまま、動きを止めています。静かで、どこか無防備な姿です。
見どころ|キツネと花、遠くの行列
女性の胸元には、黄土色のキツネが前足をかけています。クライスラー美術館は、このキツネが、この土地の無垢を乱す脅威の象徴だと説明しています。キツネは、ゴーギャンが他の作品でも用いたモチーフで、先住民の文化で「倒錯」を意味するものとして使ったと一般に考えられています。誘惑者の象徴として、ゴーギャン自身が投影されているとする見方もあります。
女性の手には、摘み取られたとみられる小さな花があり、これが純潔を失ったことを示すとされます。右手の丘には、足元の麦の束のように置かれた丸い塊があり、大地の豊穣を象徴するという解釈があります。
さらに遠景には、細い道を行く人々の小さな列が見えます。美術館は、婚礼の行列かもしれないとしています。この女性の恋人はどこにいるのか。なぜキツネは胸元に前足をかけているのか。村人たちは、彼女に何が起きたのかを知っているのか。絵は、そのどれにも答えません。
評価と影響
本作は、ブルターニュで培った平面的で鮮やかな色彩と、象徴を重ねて意味を暗示する手法とが結びついた作品です。画家は、この後タヒチに渡り、さらに独自の象徴世界を展開していきます。ゴーギャンの絵は近年、女性との関わりや植民地主義をめぐる批判的な視点からも読み直されており、本作でも、画家自身の視線のあり方が問われることがあります。
本作は1895年のパリでのゴーギャンの遺作売り立てを経て、ラ・ロシュフーコー伯爵のコレクションに入り、のちに米国へ渡って、1971年にクライスラー美術館に収まりました。
まとめ
《処女喪失》は、ひとつの出来事を、白い身体、キツネ、花、遠くの行列という数少ない要素に絞って示した絵です。鮮やかな色の帯のなかに置かれた静かな身体は、何が起きたのかを語らないまま、見る者に問いだけを残します。その沈黙こそが、この絵を象徴主義の傑作にしています。

