《カムデン・タウンの殺人》(1908年頃)は、イギリスの画家ウォルター・シッカートによる連作の一枚で、イェール大学ブリティッシュ・アート・センターが所蔵する作品です。薄暗い部屋のベッドに横たわる裸の女性と、その傍らでうなだれる着衣の男性。この記事では、この不穏な題名の由来となった実際の事件と、シッカートがなぜ同じ場面に複数の題名を与えたのかを解説します。
シッカート《カムデン・タウンの殺人》とは|基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ウォルター・シッカート |
| 制作年 | 1908年頃 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 25.6×35.6cm |
| 所蔵 | イェール大学ブリティッシュ・アート・センター、収蔵番号B1979.37.1 |
| ジャンル | 室内画・裸婦画 |
| 別題 | 《家賃のために何をすべきか》 |
一言でいうと 《カムデン・タウンの殺人》は、実際の殺人事件の名を借りながらも暴力そのものは描かず、貧困の中で交わされる一組の男女の重苦しい沈黙を描いた作品である。
制作背景|なぜこの作品は生まれたのか
カムデン・タウンで起きた事件
1907年9月、ロンドン北部のカムデン・タウンで、パートタイムの娼婦として働いていたエミリー・ディモックが、自宅の寝室で就寝中に喉を切られて殺害される事件が起こりました。逮捕された画家志望の青年ロバート・ウッドは、弁護士エドワード・マーシャル・ホールの弁護により無罪となりましたが、真犯人は今も特定されていません。この猟奇的な事件は当時の新聞を賑わせ、社会に大きな衝撃を与えました。
題名をめぐる駆け引き
シッカートはこの事件が起きた頃、まさにカムデン・タウンにアトリエを構えていました。彼はそれ以前から、ベッドの上の物憂げな裸婦を描く一連の作品に取り組んでおり、そこに着衣の男性を加えた4点の連作に、あえて《カムデン・タウンの殺人》という題名を与えています。しかし当初これらの作品は《夏の午後》や《相談》といった別の題名で展示されており、そのうちの一枚は《家賃のために何をすべきか》というより穏当な題名で発表されていました。「家賃のために何をすべきか」は、当時のミュージックホールの歌の一節でもあり、困窮した女性が最後の手段として体を売ることを示唆する言葉でもありました。
見どころ徹底解説

暴力を描かない「殺人」画
この連作のどの作品にも、実際の暴力の描写は一切ありません。ベッドに横たわる女性の姿は、眠っているようにも、放心しているようにも見え、傍らの男性はうなだれて手を組み、深く物思いに沈んでいます。題名から連想される凄惨さとは裏腹に、画面全体は静かな悲哀に包まれています。
薄暗い室内の質感
粗く積み重ねられた筆致と、抑えられた色調によって、狭く薄暗い賃貸部屋の空気がそのまま伝わってきます。豪華さとは無縁の、当時の労働者階級が暮らした部屋の質感を写し取ることに、シッカートは強くこだわりました。
見る者に委ねられた物語
女性は殺されたばかりなのか、それとも眠っているだけなのか。男性は罪の重さに打ちひしがれているのか、それとも生活の苦しさを嘆いているだけなのか。シッカートはこの場面に明確な答えを示さず、鑑賞者自身がその意味を埋めることを求めています。この曖昧さこそが、当時のエドワード朝で流行した「問題画」というジャンルの特徴でもありました。
評価と影響
本作を含む連作は、発表当初から大きな論争を呼び、シッカートの名を広く知らしめるきっかけになりました。実際の未解決事件の名を借りたことへの批判もありましたが、シッカート自身は後年の講演で「殺人も他のあらゆる主題と同じくらい良い題材だ」と述べています。20世紀末には、作家パトリシア・コーンウェルがシッカートを切り裂きジャック本人であると主張し、本作を含む作品からDNAの採取を試みたことでも話題になりましたが、シッカートがディモック殺害事件やホワイトチャペル連続殺人事件に直接関与していたことを示す証拠は見つかっていません。
実際に見るには
アメリカ・コネチカット州のイェール大学ブリティッシュ・アート・センターの所蔵作品です(収蔵番号B1979.37.1)。訪問前には開館日・展示状況を公式サイトで確認することをおすすめします。
よくある誤解
誤解①「事件そのものを再現した絵」→ 実際の犯行現場を描いたものではない
題名から、エミリー・ディモック殺害事件の現場を再現した作品だと思われがちですが、シッカートがこの事件の詳細を実際に取材して描いたという証拠はありません。事件への関心と、それ以前から続けていた裸婦画の主題とが、題名を通じて結びつけられた作品です。
誤解②「シッカートは事件の容疑者だった」→ 捜査や裁判には一切関与していない
シッカートが切り裂きジャックやカムデン・タウンの殺人事件の犯人ではないかという説がたびたび話題になりますが、彼が事件当時に捜査対象となったり、裁判で証言を求められたりした記録はありません。彼とエミリー・ディモックとの間に接点があったことを示す証拠も見つかっていません。
FAQ
Q. 何が描かれていますか?
A. 薄暗い部屋のベッドに横たわる裸の女性と、その傍らでうなだれる着衣の男性です。
Q. 作者はどんな画家ですか?
A. ウォルター・シッカート(1860〜1942)。ドイツ生まれのイギリスの画家で、カムデン・タウン・グループの中心人物として、都市の労働者階級の生活を題材にした作品を数多く手がけました。
Q. なぜ「殺人」という題名がついているのですか?
A. 1907年にカムデン・タウンで実際に起きた娼婦エミリー・ディモック殺害事件にちなんで名付けられたためです。ただし作品自体は暴力の場面を描いてはいません。
Q. どこで見られますか?
A. アメリカ・イェール大学ブリティッシュ・アート・センターです。訪問前に公式サイトで開館状況を確認することをおすすめします。
まとめ
《カムデン・タウンの殺人》は、実際の未解決事件の名を借りながらも、暴力そのものではなく、貧困の中で交わされる沈黙と重苦しい空気を描いた作品です。何が起きたのかを教えてくれないこの絵の前に立つと、答えの出ない問いを自分自身で抱え続けることになります。
