アムリタ・シェール=ギル(1913〜1941)は、ハンガリーに生まれ、インドで活動した画家です。インド人の父とハンガリー人の母を持ち、パリで西洋絵画を学んだのち、インドの伝統美術と庶民の暮らしを主題に、独自の画風を築きました。28歳で急逝するまでの制作期間は短いものの、インド近代美術の先駆者とされ、「インドのフリーダ・カーロ」と呼ばれることもあります。この記事では、生涯、作品の特徴、代表作、死をめぐる謎、後世への影響をまとめます。
基本情報
生没年は1913年1月30日〜1941年12月5日(享年28)。ブダペストに生まれ、ラホール(当時は英領インド、現在のパキスタン)で亡くなりました。分野は油彩画で、様式はポスト印象派の影響から出発し、のちにインドの伝統絵画を取り入れた独自の表現へ進みます。代表作に《若い娘たち》《花嫁の化粧》《語り手》などがあります。
生い立ち|二つの文化のあいだで
父のウムラオ・シン・シェール=ギルは、パンジャーブ地方のシク教徒の貴族で、サンスクリット語とペルシア語の学者でした。母のマリー・アントワネット・ゴットスマンは、裕福な家に生まれたハンガリー系ユダヤ人のオペラ歌手です。アムリタは姉妹の姉で、妹のインディラの子が、現代美術家のヴィヴァン・スンダラムです。
一家は第一次世界大戦後も、しばらくブダペストで暮らしましたが、経済的な事情から、1921年にインドのシムラへ移ります。アムリタは5歳頃から絵を描き、8歳で本格的に絵の指導を受け始めました。ピアノとヴァイオリンも習い、妹とともに、地元の劇場で演奏や演劇を披露しています。1924年には、母とともにイタリアへ渡り、フィレンツェの美術学校に通いましたが、長くは続かず、同じ年にインドへ戻りました。
画家としての道を後押ししたのが、インド学者で、母方の叔父にあたるエルヴィン・バクタイです。1926年にシムラを訪ね、姪の才能に気づいたバクタイは、彼女が絵を学ぶことを強く勧め、一家のパリ行きの契機をつくりました。
パリ時代|ポスト印象派を吸収する
1929年、16歳のアムリタは、母とともにパリへ渡ります。最初はグランド・ショーミエール美術学校で、ピエール・ヴァイヤンとリュシアン・シモンに学び、1930年から1934年にかけては、エコール・デ・ボザールで学びました。セザンヌ、ゴーガン、モディリアーニなどから刺激を受け、自画像、友人の肖像、静物、裸体などを数多く描いています。
転機は、1932年の《若い娘たち》です。この作品で、翌1933年にパリのグラン・サロンの準会員に選ばれ、金賞も受けました。最年少で、アジア人としては唯一の準会員とされています。

パリ時代の自画像については、ニューデリーの国立近代美術館が、陰鬱、物思い、陽気と、さまざまな表情の画家を捉えながら、ナルシシズムの傾向も表している、と解説しています。1934年の《タヒチ人としての自画像》には、ゴーガンへの意識も読み取れます。

インドへの帰還|「自分の色」を探して
パリで、アムリタの色彩の豊かさを見たある教師は、彼女の芸術的な個性は、東洋でこそ真価を発揮するだろう、と語ったと伝えられます。1933年頃から、彼女は、画家としての自分の運命はインドにある、という思いに強くとらわれるようになり、1934年末にインドへ戻りました。
帰国後は、ムガル絵画、パハーリー派の細密画、アジャンタ石窟の壁画などに強い影響を受け、インド美術の伝統の再発見に取り組みます。収集家で批評家のカール・カンダワラの助言もあり、国内の旅を重ねました。
南インドの三部作と、初めての個展
1937年の南インド旅行は、画風を決定づけました。アジャンタ石窟を訪ねたのち、《花嫁の化粧》《ブラフマチャーリー》《市場へ向かう南インドの村人たち》の南インド三部作を描きます。古典的なインド美術への回帰を、意識的に試みた作品群です。三部作には、色彩へのこだわりと、貧しさや苦しみのなかにいる人々への共感が、はっきり表れています。



同じ1937年の11月には、ラホールのファレッティ・ホテルで、33点を並べる個展を開き、4点が売れました。この頃、彼女は自分の使命を、キャンバスを通じて、インドの人々の生活を表現することだと考えるようになっていたとされます。のちに友人に宛てて、描けるのはインドだけであり、ヨーロッパはピカソやマティス、ブラックのもので、インドは自分だけのものだ、という趣旨のことを書いています。
結婚、晩年、そして急逝
1938年、アムリタは、ハンガリー人の従兄で医師のヴィクトル・エガンと結婚します。夫とともに、ウッタル・プラデーシュ州ゴーラクプルの近くにある、父方の家に移り、農村の暮らしを描いた作品を数多く残しました。批評家のカンダワラや、ラホールの批評家チャールズ・ファブリは、彼女を、同時代で最高の画家と称えましたが、作品の買い手は多くありませんでした。1940年10月には、ネルーがこの地を訪ね、彼女に会っています。
1941年9月、夫妻はラホールへ移ります。そして12月、最初の大規模な個展の開幕を数日後に控えて、重い病に倒れ、昏睡状態に陥り、5日の深夜に亡くなりました。最後の作品は、未完のまま残されました。
死因は、はっきりしていません。腹膜炎とする説のほか、中絶の失敗を原因とする説などが挙げられていますが、確定した事実とは言えません。
何がすごいのか|3つの特徴
特徴の一つ目は、西洋の技法と、インドの伝統の融合です。パリで身につけたポスト印象派の色彩と構成に、アジャンタの壁画、ムガルやパハーリーの細密画の要素を重ね、どちらか一方には回収されない画面を作りました。
二つ目は、名もなき人々、特に女性への眼差しです。村の女性や、農民、花嫁といった題材を、飾ることなく、しかし深い共感をもって描いています。
三つ目は、自画像に見られる、自己表現の強さです。パリ時代から晩年まで、彼女は、さまざまな姿の自分を描き続けました。
代表作
《若い娘たち》(1932年)は、グラン・サロンで評価された出世作で、ニューデリーの国立近代美術館に所蔵されています。《タヒチ人としての自画像》(1934年)は、パリで描かれた油彩の自画像です。《三人の娘たち》(1935年)は、帰国後の初期の代表作とされます。
《花嫁の化粧》(1937年、88.8×146cm)は、アジャンタの壁画とムガルの細密画の影響が指摘される作品で、国立近代美術館が所蔵しています。《市場へ向かう南インドの村人たち》(1937年、90×147.3cm)は、同じく国立近代美術館の所蔵で、シムラの自宅で描かれました。《語り手》(1937年)は、村の女性たちを描いた、直径79cmの円形に近い画面の作品で、2023年9月に、インド人作家の作品として、オークション史上最高額の約740万ドル(約61.8億ルピー)で落札されました。

後世への影響
アムリタの作品は、インド政府により、国宝級の美術品(ナショナル・アート・トレジャー)に指定されており、大部分は、ニューデリーの国立近代美術館に所蔵されています。ラホール博物館にも、作品が収蔵されています。
その影響は、S・H・ラザーからアルピタ・シンまで、世代を超えた多くのインドの画家に及んでいます。1978年には、《丘の女たち》を図案にした切手が発行され、2013年には、生誕100年を記念して、ユネスコが国際アムリタ・シェール=ギル年を宣言しました。2016年には、グーグルのロゴが、彼女の作品にちなんだ図案に変わっています。ブダペストのインド文化センターも、彼女の名を冠しています。
まとめ
アムリタ・シェール=ギルは、ヨーロッパで学んだ技法を土台に、インドの伝統と人々の暮らしを描くことで、自分だけの表現を見いだした画家です。28年という短い生涯でしたが、その作品は、今もインド近代美術の出発点の一つとして、語り継がれています。





