薄明かりの中、一頭の馬が全力で駆け抜けていきます。背にまたがるのは、父親と母親、そして幼い子どもたち。誰一人として白人の姿が描かれていないこの逃走劇は、南北戦争のさなかに実際に目撃された出来事だとされています。《自由への乗馬 – 逃亡奴隷たち》(1862年頃)は、アメリカの画家イーストマン・ジョンソンによる油彩画で、ニューヨークのブルックリン美術館が所蔵しています。奴隷制からの解放を、他者からの施しとしてではなく、当事者自身の行動として描いた、当時としては極めて異例な一枚です。
基本情報
作者:イーストマン・ジョンソン(1824〜1906)
制作年:1862年頃
技法・素材:油彩・厚紙(ペーパーボード)
サイズ:約55.8×66.4cm
所蔵:ブルックリン美術館(ニューヨーク)
関連作品:ヴァージニア美術館にも関連する作品を所蔵
裏面の記述:「1862年3月2日、マクレラン将軍のマナサスへの進軍の朝、センターヴィルにて自らが目撃した、南北戦争における真実の出来事」
一言でいうと
《自由への乗馬 – 逃亡奴隷たち》は、南北戦争の最中、奴隷制のもとにあった一家が、一頭の馬に乗り北軍の陣地を目指して駆け抜ける瞬間を描いた作品です。この場面には白人の姿がまったく描かれておらず、彼らが自らの意志と行動によって自由を勝ち取ろうとする姿として表現されている点が、同時代の類似の主題を扱った絵画の中でも際立っています。
制作背景
画家イーストマン・ジョンソンは、メイン州出身の風俗画家で、すでに《オールド・ケンタッキー・ホーム―南部の黒人の暮らし》(1859年)などの作品を通じて、アメリカにおける人種の問題を主題に取り上げていました。《自由への乗馬》はその流れをくむ、彼の代表作の一つです。
この絵の裏面には、1862年3月2日、北軍のマクレラン将軍がヴァージニア州マナサスへ進軍した朝、ジョンソン自身がセンターヴィルの地でこの出来事を実際に目撃したという趣旨の記述が残されています。当時、マクレランの軍が南部を南下していく中で、奴隷とされていた人々の中には、その隙をついて北軍の戦線を越え、自由を求めて逃走を図る者が数多くいました。
見どころ

三者三様の視線
家族それぞれが、異なる方向へと視線を向けています。先頭の父親はこれから訪れる未来を見据えるように前方を、母親は過ぎ去った苦難を振り返るように後方を、そして幼い子どもは今この瞬間の興奮に目を奪われるように、下方を見つめています。この三つの視線の違いが、一枚の絵の中に過去・現在・未来という時間の重なりを持ち込んでいます。
中心に据えられた黒人家族
それ以前の絵画では、黒人の人物はしばしば画面の端に配置され、主題としての重要性が意図的に薄められる傾向がありました。これに対しジョンソンは、この一家を画面の中心に据え、彼らの逃走そのものを絵の主役として描いています。
白人の不在という選択
奴隷解放を主題にした当時の絵画では、白人の人物(解放者や保護者としての北軍兵士など)が共に描かれることが一般的でした。しかしこの絵にはそうした人物が一切登場せず、この一家だけが自らの力で自由への道を切り開いていく姿として描かれています。この構図上の選択が、この絵を同時代の類似作品の中でもひときわ特異なものにしています。
評価と受容
この絵は今日、アメリカ史の授業において、「奴隷を解放したのはリンカーンなのか、それとも奴隷自身なのか」という重要な問いを考えるための教材としてもしばしば取り上げられています。ジョンソンは家族の表情を誇張することなく、威厳を保った姿として描いており、当時の類型的な人種表現とは一線を画す描写になっています。この絵が実際に描かれた1862年という年、そして北軍側の視点から見た解放という主題は、当時の政治的な文脈とも深く結びついていたと考えられていますが、この絵が同時代に公に展示されていたなら、どのような反応を受けていたのかは、今も研究者の間で議論の対象になっています。
よくある誤解
誤解①「この絵には解放を助ける北軍兵士の姿も描かれている」→ 実際は一家だけが描かれ、白人の姿は一切登場しない
奴隷解放という主題から、救援に駆けつける兵士なども共に描かれていると思われがちですが、実際にはこの絵には白人の人物は一人も登場せず、一家だけが自らの力で逃走する姿として描かれています。
誤解②「この絵はジョンソンの想像による架空の場面である」→ 実際は画家自身が目撃したとされる実際の出来事に基づいている
劇的な構図から創作された場面だと思われがちですが、実際には絵の裏面に、ジョンソン自身が1862年3月にヴァージニア州で目撃した出来事だという記述が残されています。
FAQ
Q. 《自由への乗馬 – 逃亡奴隷たち》とはどんな作品ですか?
A. ジョンソンが1862年頃に手がけた油彩画で、南北戦争のさなか、一頭の馬に乗り北軍の陣地を目指して逃走する奴隷の一家を描いています。ブルックリン美術館が所蔵しています。
Q. なぜこの絵にはこの一家しか描かれていないのですか?
A. 白人による救済や保護としてではなく、奴隷とされていた人々自身の行動によって自由が勝ち取られる様子を描くため、あえて白人の人物を登場させない構図が選ばれたと考えられています。
Q. この絵はどんな出来事に基づいていますか?
A. 1862年3月2日、北軍のマクレラン将軍がヴァージニア州マナサスへ進軍した朝、ジョンソン自身がセンターヴィルで実際に目撃したとされる出来事に基づいています。
Q. 《自由への乗馬 – 逃亡奴隷たち》はどこで見られますか?
A. アメリカ・ニューヨークのブルックリン美術館が所蔵しています。関連する作品はヴァージニア美術館にもあります。
まとめ
一頭の馬にまたがる家族の姿は、誰かに救われるのを待つのではなく、自らの足で――いや、自らの手で手綱を握って――自由へと駆け出していく人々の姿そのものです。160年以上前に描かれたこの一枚が今も問いかけ続けているのは、歴史の主語を誰に置くかという、単純だからこそ重い問いなのかもしれません。
