《夏の夜の夢(声)》(1893年)は、エドヴァルド・ムンクが、ノルウェーの海辺の町オースゴールストランの情景を描いた油彩画で、アメリカのボストン美術館が所蔵しています。松の幹が並ぶ森のふちに、白い服の女が、両手を後ろに回して立ち、その背後の水面には、満月と、まっすぐ立ちのぼる黄色い光の柱が見えます。ムンクが「生命のフリーズ」の連作のなかで、愛の始まりを描いた作品の一つです。
基本情報
作者はエドヴァルド・ムンク(1863〜1944)、制作年は1893年です。技法はキャンバスに描いた油彩で、サイズは縦87.9×横108cm。ボストン美術館(収蔵番号59.301、アーネスト・ワズワース・ロングフェロー基金)に所蔵されています。画面の左下には、「E. Munch 1893」と署名があります。英語の題は「Summer Night’s Dream (The Voice)」で、「声」と呼ばれることもあります。
制作背景|「生命のフリーズ」と愛
ムンクは、1880年代の終わりに、生、愛、死を、詩的に、象徴的に描く、大きな連作「生命のフリーズ」を構想しました。ボストン美術館は、本作が、その「愛」の連作のなかで、最初の作品にあたり、思春期の性への目覚めの、最初のきざしを描いていると解説しています。
舞台は、オースゴールストランの近くの、ボッレの森の縁だとされます。ムンクは、1880年代の終わりから、毎夏、この海辺の町で過ごしました。モデルは、ムンクの恋人だった「ハイベルク夫人」(実際は、ミリー・タウロウ)と、ほぼ確実だと考える研究者もいます。
「声」という題の由来については、ムンクが、恋人の音楽的な声を愛していたためだと考えられています。ムンクは、その声を、ある瞬間は優しく、次の瞬間はからかうようで、さらに挑発的だったと書いています(趣旨)。また、この作品は、「生命のフリーズ」の初期の形では、「二つの目」と呼ばれていたとも説明されています。
見どころ|立つ女と松の幹

画面の左では、白い服の女が、まっすぐ立ち、こちらを見つめています。頭には、暗い赤の丸い帽子のようなものをかぶり、顔は、淡い色で、目や口は、簡略に描かれています。腕は、体の後ろに回されているようで、白い服の上半身は、体の線に沿って、滑らかに塗られています。服の裾には、青や黄色の筆の跡が混ざり、光を含んでいるように見えます。
女の背後と周囲には、背の高い松の幹が、縦に何本も並び、画面の上には、緑の松の葉が、わずかにのぞきます。幹は、茶、赤茶、青みを帯びた黒など、さまざまな色で塗られ、画面を縦に区切るリズムを作っています。足もとは、濃い緑の草地が、画面の下を、斜めに横切っています。
見どころ|月の光の柱
中央の上部には、淡い青の水面の上に、満月が浮かび、その下から、黄色い光の柱が、まっすぐ伸びています。右には、小さな白い船も見えます。
光の柱は、水面に映る月の反射を描いたものだとされます。ある紹介記事は、実際の水面の反射が、満月の下に、波に沿って断片的に描かれているのに対し、光の柱は、満月の上に伸びていると指摘しています。この不思議な柱は、ムンクの海の絵に、しばしば現れる要素です。
手前の岸の近くには、淡い桃色や黄色の砂の帯と、赤い波のような線があり、その上の、淡い地面には、一対の目のような楕円形の模様が、描かれています。ある紹介記事は、この目が、こちらを見つめているかのようだと述べ、同じ構図の別の作品(1896年の《声/夏の夜》)には、この目は描かれていないと指摘しています。
浮世絵との比較
日本では、2017年の「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」(世田谷美術館)に出品され、歌川広重の《名所江戸百景 神田明神曙之景》と並べて展示されました。この展覧会は、広重の大胆な構図の影響を示そうとしたもので、画面を縦に貫く木の幹と、月の光の柱が、広重の構図と通じるという見方です。
別の版
ムンクは、同じ構図の作品を、複数描いています。オスロのムンク美術館には、1896年の《声、夏の夜》(縦90×横119cm)があり、本作より、画面が近い視点で切り取られ、フィヨルドに、さらにボートが描かれています。ムンクは、ボストンの版のほうを、気に入っていたとも伝えられます。
来歴
ボストン美術館の記録によると、本作は、1927年から1937年頃まで、ベルリンのモデルネ・ガレリー・タンハウザーが扱い、1937年に、オスロのハラルド・ホルスト・ハルヴォルセンが入手しました。1959年に、ハルヴォルセンから、ボストン美術館へ、3万5千ドルで売られました。それ以前に、ムンクと親交のあった、ベックストレーム夫妻の家に掛けられていたことも、記録されています。夫人は、ムンクのモデルだったダグニー・ユール・プシビシェフスカの姉妹でした。
まとめ
《夏の夜の夢(声)》は、夏の夜の静けさのなかに、愛の気配と、見えない視線を忍び込ませた作品です。白い服の女と、森の幹と、月の光の柱。そのどれもが、動かないまま、何かを語りかけているように見えます。
