ゴーギャン《説教のあとの幻影》とは|赤い大地に浮かぶ、ブルターニュの女たちの幻視

《説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)》(1888年)は、ポール・ゴーギャンが、ブルターニュのポン=タヴァンで描いた油彩画です。教会で説教を聞き終えた農婦たちの前に、旧約聖書の、ヤコブと天使の格闘の場面が、真っ赤な地面の上に浮かび上がります。現実の風景を写すことをやめ、色と形で「心のなかの像」を描こうとした、ゴーギャンの転機を示す作品です。

基本情報

作者はポール・ゴーギャン(1848〜1903)、制作年は1888年です。技法はキャンバスに描いた油彩で、サイズは縦72.2×横91cm。エディンバラのスコットランド国立美術館(収蔵番号NG 1643)に所蔵されています。画面の左下には、署名と年号が入っています。

制作背景|ポン=タヴァンの夏

1888年、ゴーギャンは、ブルターニュのポン=タヴァンに滞在し、若い画家エミール・ベルナールと出会いました。ベルナールは、日本の浮世絵に影響を受けた、単純化された画風を試みていました。この夏、ベルナールは、地元の宗教行事「パルドン」の祭りを題材に、《草地のブルターニュの女たち》を描いています。

ゴーギャンは、このベルナールの試みを見て、さらに発展させ、本作を描いたとされます。ベルナールは、のちに、自分こそが、この手法(のちに総合主義と呼ばれる)の最初の実践者だと主張しました。

見どころ|赤い大地を二つに分ける木

画面は、斜めに走る一本のリンゴの木によって、二つの領域に分けられています。左の手前には、ブルターニュの女たちがいて、右上の遠くには、ヤコブと天使の格闘が見えます。この構成によって、現実の世界と、女たちが思い描く幻影の世界が、視覚的に切り離されています。

地面は、現実にはありえない、鮮烈な赤で塗られています。スミソニアンの解説動画などでは、色が、写実のためではなく、それ自体の力で、画面を支えていると指摘されています。木の幹は、画面を斜めに横切り、上部では、緑の葉の塊が、雲のように広がっています。

見どころ|白い頭巾の女たち

手前の女たちは、ブルターニュの伝統的な白い頭巾をかぶり、黒い衣をまとっています。左下の女は、目を閉じ、胸の前で両手を合わせて、祈っています。その右の女は、頭巾の紐を肩に垂らし、画面の上のほうへ目を向けています。画面の右下には、半分切れた人物の頭があり、これは説教を終えた司祭とされます。

画面の左上には、さらに離れて座る、数人の女たちがいます。頭巾の白い大きな面が、赤い背景のなかで、強い存在感を放っています。人物の顔は、輪郭線で縁どられ、陰影をほとんど持たない、平らな色面で表されています。

見どころ|ヤコブと天使

画面の右上では、青い衣の天使が、黄色い翼を広げ、緑の衣のヤコブを、抱え込むようにして組み合っています。二人とも裸足で、赤い大地の上を、踏みしめています。旧約聖書の「創世記」第32章に記された場面で、ヤコブが、夜通し、神の使いと格闘し、最後には祝福を受けるという物語です。

この格闘の姿は、日本の浮世絵、とりわけ葛飾北斎の『北斎漫画』に描かれた、相撲取りの図に由来するとされます。ベルナールは、そのことを、のちに述べています。ブルターニュでは、パルドン祭のあと、少年たちが相撲に似た格闘を行う習慣があり、それが画題に結びついたとも言われます。

画面の左上、木の根元近くには、小さな牛が、跳ね上がるように描かれています。この牛は、現実の大きさとは釣り合わず、絵のなかの、非現実の領域に属しています。

ゴーギャンの言葉

ゴーギャンは、1888年9月に、ゴッホへ宛てた手紙のなかで、この作品について語っています。木の下の牛は、現実よりずっと小さく、跳ねている。この絵の風景と格闘は、説教のあとに祈る人々の想像のなかにしか存在しない。そのため、自然な姿の人々と、非自然で、均衡を欠いた風景の格闘とのあいだに、対比が生まれる、という趣旨です。

また、人物については、素朴で迷信深い人々を、きわめて単純に描けたと感じている、とも述べています。ゴーギャンは、この絵を、宗教的な題材の、あまりうまく描けていない絵だと、ややへりくだって紹介しています。

評価と来歴

当初、ゴーギャンは、この絵を、ポン=タヴァン近くのニゾン教会に寄贈しようとしましたが、司祭に断られた、と伝えられています。1889年2月には、ブリュッセルの美術展「20人会(レ・ヴァン)」に出品されました。

題名も、初めは「幻影」のような名前で呼ばれていたとされ、展覧会に出品する際に、「説教のあとの幻影」と、正式に名づけられました。ほかの案は、「祈る女たち」「天使たちの闘い」でした。

スコットランド国立美術館は、1925年に、1,150ポンドで、この作品を購入しました。現在は、同館を代表する所蔵品の一つです。

まとめ

《説教のあとの幻影》は、現実と幻影を、一つの画面に並べ、色によって分けた作品です。ゴーギャンは、見えるものを写すことよりも、人々が信じ、思い描くものを、画面に置くことを選びました。この絵から、タヒチへ向かう画家の、出発点が見えてきます。

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