『百物語 しうねん』は、葛飾北斎が怪談シリーズ『百物語』の一図として描いた錦絵です。ほかの4図と違って、人間の幽霊も、骸骨も出てきません。位牌、供物、水を入れた器、そして一匹の蛇だけが、淡い青灰色の画面に、静物画のように置かれています。それでいて、見る者に、強い不気味さを残す一枚です。
基本情報
作者は葛飾北斎(1760?〜1849)、制作は、天保2〜3年(1831〜32年)頃とされます。形式は中判の錦絵で、サイズは縦26.1×横19.0cm。版元は鶴屋喜右衛門です。東京国立博物館などに所蔵されています。題は、「しうねん」と仮名で記され、「執念(しゅうねん)」を指します。
『百物語』のなかの一図
『百物語』は、全100図の予定でしたが、確認されているのは5図(「さらやしき」「笑ひはんにや」「お岩さん」「こはだ小平二」「しうねん」)です。ほかの4図が、お菊、般若、お岩、小平次といった、具体的な怪談の主人公を描いたのに対して、本作は、特定の物語に結びつきません。亡者の執念という、抽象的な主題を、物のみで表現した点が、シリーズのなかで異色とされます。
見どころ|画面に置かれた物たち

画面の左では、黒い台の上に、くしゃくしゃに丸められた白い紙と、色鮮やかな模様の布が、盛り上がっています。その上と、台の手前に、茶色の斑のある蛇が、何重にもからみついています。蛇の体は、台の前から、右の器のほうへ、長く伸びています。
画面の下には、白い器があり、青い水が張られ、その水面に、一枚の葉が浮かんでいます。器の側面には、黒い円のなかに、白い卍の印が描かれています。蛇の頭は、この器のすぐ右で、鎌首をもたげています。
画面の右側には、背の高い白木の位牌が、台に載って立っています。位牌には、「茂問爺院」と、戒名が大書され、その横に、小さな文字の添え書きが見えます。位牌のすぐ後ろにも、蛇の尾が回り込み、位牌を取り巻いています。背景は、柔らかな青灰色で、画面全体は、明るく、すっきりした色調です。
文化遺産オンラインは、位牌のそばに供物と水が置かれ、そこへ一匹のヤマカガシが、巻き付いていると説明しています。
見どころ|位牌の文字
位牌にある「茂問爺院」は、江戸の人々が、化物の総称として用いた「モモンジイ」の、もじりとされます。『今昔画図続百鬼』に登場する妖怪、百々爺(ももんじい)を踏まえたものと考えられています。つまり、位牌の主は、化物です。
位牌の上部には、梵字のように見える文字がありますが、その形が、人の横顔にも見える、という指摘があります。ウィキペディアは、これを「梵字に見せた女性の横顔」と記しています。
蛇と執念
江戸時代、蛇は、執念深い生き物の象徴でした。嫉妬や復讐に取り憑かれた人が、成仏できずに、蛇のかたちで迷い出る、という考え方があったとされます。本作は、そうした「亡者の執念」を主題にしたと考えられています。
アダチ版画研究所の解説は、死んだ化物の位牌に、いつまでも絡みつく蛇という構図に、北斎のブラックユーモアが現れている、と述べています。恐ろしさと、可笑しさが、紙一重で並ぶ画面です。
器の「卍」
器に描かれた卍は、北斎の画号に用いられた文字です。文化遺産オンラインは、この位牌を、北斎自身の位牌とも考えられる、と解説しています。また、卍を日蓮宗の印とする資料もあります。
ある個人のブログは、さらに踏み込んで、蛇は北斎の魂が宿ったもので、器の葉を筆の代わりにして、絵を描こうとしている瞬間だ、という読みを、推測として示しています。これは、公的な解説ではなく、一つの鑑賞の例です。
まとめ
『百物語 しうねん』は、人の姿を描かずに、位牌と蛇だけで、執念を語らせた作品です。静かな色調のなかに、おかしみと凄みが同居しており、北斎が、怪談という題材を、どこまで自由に扱ったかを示しています。

