《ベアタ・ベアトリクス(Beata Beatrix)》(1864〜70年)は、ラファエル前派を主導した画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティによる油彩画で、ロンドンのテート(テート・ブリテン)が所蔵しています。ダンテ・アリギエーリの『新生』に登場する理想の女性ベアトリーチェの死の瞬間を主題としながら、実際には画家自身が亡くした妻エリザベス・シダルへの追悼として描かれた、私的な悲しみと文学的主題が二重写しになった作品です。
基本情報
作者はダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828〜1882)。技法は油彩・カンヴァスで、サイズは約86.4×66cm。1864年から1870年にかけて制作され(1850年に着手されながら中断していた構想を再開したもの)、現在はテート所蔵です。同主題のヴァリアントが複数現存し、バーミンガム美術館などにも異なるバージョンが所蔵されています。
制作背景|『新生』への少年期からの思い
ロセッティは幼少期からダンテ・アリギエーリの『新生』に強く惹かれており、1845年には自らその英訳を手がけ、詩集『初期イタリアの詩人たち』に収めています。『新生』は、若きダンテが早世した恋人ベアトリーチェへの愛と喪失を綴った作品で、ロセッティにとって生涯を通じた芸術的な原点のひとつでした。
本作の構想は1850年、単身のベアトリーチェ像として始まりますが、いったん中断されます。転機となったのは1862年、モデルであり画家でもあった妻エリザベス・シダルの死でした。長く病弱だったシダルはアヘンチンキの過剰摂取により命を落とし、悲嘆に暮れたロセッティは、彼女の生前のスケッチをもとに本作を描き上げていきます。ダンテの喪失にロセッティ自身の喪失を重ね合わせるという二重の構造が、この絵の核にあります。
見どころ|恍惚とした死のヴィジョン

画面中央、エリザベス・シダルをモデルにしたベアトリーチェは、目を半ば閉じ、恍惚とも法悦とも取れる表情で上を向いています。彼女の手には赤い胸元から差し出されるように白い罌粟(けし)の花を持つ鳥が舞い降り、これは死そのものの象徴であると同時に、シダルの死因であったアヘンをも暗示しているとされます。日時計は死の刻を示す影を落とし、後景にはダンテを思わせる人物とベアトリーチェの寓意的な姿がぼんやりと配され、フィレンツェの街並みがかすむように広がっています。
画面全体を覆う金褐色の光は、写実的な情景描写というより、死という出来事の内側から放たれる神秘的な輝きのように機能しています。苦悶ではなく法悦として死を描くこの逆説的な美しさは、ラファエル前派特有の、宗教的恍惚と官能を分かちがたく結びつける感性をよく示しています。
ベアトリーチェとしてのシダル
本作以降、エリザベス・シダルの面影は、ダンテの理想の女性ベアトリーチェのイメージと分かちがたく結びついて語られるようになりました。生前、ロセッティの数多くの作品のモデルを務めた彼女自身も画才を持つ人物でしたが、その名は、この一枚を通じて「早逝した理想の女性」という文学的な役割に重ねられ、後世に記憶されていくことになります。伝記的事実と文学的主題がここまで密接に融合した作品は、ラファエル前派のなかでも稀です。
評価と影響
《ベアタ・ベアトリクス》は、ロセッティの代表作であると同時に、ラファエル前派後期における象徴主義的傾向の先駆けとしても評価されています。個人的な喪失を、文学的・宗教的な主題を借りて普遍化するというこの絵の方法は、のちの象徴主義絵画にも通じるものであり、死と美、愛と喪失が分かちがたく結ばれた19世紀後半のロマン主義的想像力を代表する一枚として、今日も広く親しまれています。
まとめ
《ベアタ・ベアトリクス》は、六百年近く前の詩に描かれた死を借りながら、実際には画家自身の痛切な喪失を描いた作品です。恍惚とした表情の奥に沈む深い悲しみこそ、この絵がダンテの物語を超えて、ロセッティ個人の記憶の絵画として今も見る者の心をとらえ続ける理由といえます。

