「学部の絵(Fakultätsbilder)」は、グスタフ・クリムトがウィーン大学大講堂の天井画として制作した《哲学》《医学》《法学》の三部作(1900〜07年)です。発表のたびに猛烈な非難を浴び、ついに大学に設置されることなく、1945年、第二次世界大戦末期の火災で三点とも焼失しました。現在はモノクロ写真(および一部の部分カラー写真)でしか姿を知ることのできない、20世紀美術史最大級の「失われた傑作」です。
基本情報
作者はグスタフ・クリムト(1862〜1918)。1894年にオーストリア教育省からウィーン大学大講堂の天井装飾として委嘱され、《哲学》は1900年、《医学》は1901年、《法学》は1903年(完成形は1907年頃まで加筆)にそれぞれ発表されました。いずれも油彩・カンヴァスの大画面(各約430×300cm)です。三点は最終的に大学へ引き渡されることなく、後述の経緯でコレクターの手に渡り、1945年5月、疎開先の下オーストリア、インメンドルフ城の火災により焼失しました。
制作背景|「光が闇に勝つ」はずだった
委嘱の趣旨は、大講堂の中央画《闇に対する光の勝利》を囲み、哲学・医学・法学・神学の四学部を寓意的に讃えることでした(クリムトの担当は神学を除く三点)。つまり大学側が期待したのは、理性と学問の勝利を謳う明快なアカデミックな寓意画です。
ところがクリムトが提示したのは、正反対のビジョンでした。歴史主義の装飾画家として出発した彼は、この時期、ウィーン分離派の結成(1897年)を経て、象徴主義的な独自の世界へと急旋回しつつありました。「学部の絵」はその転換点そのものであり、学問の栄光ではなく、人間の生と苦悩の底知れなさを描いてしまったのです。
三部作の内容

《哲学》(1900年)は、画面左を漂い流れる裸体の人間の柱(誕生から老いと死まで)と、右側に浮かぶ宇宙的なスフィンクスの幻影、画面下で目を光らせる「知」の頭部からなります。理性の勝利どころか、世界の謎の前に立ちすくむ人間を描いたこの絵は、パリ万国博覧会で金賞を受けた一方、ウィーンでは87名の大学教授が設置反対の請願を行う事態となりました。

《医学》(1901年)では、生死の入り混じる人間の奔流のなかに骸骨(死)が紛れ込み、画面下には蛇と忘却の杯を持つ健康の女神ヒュギエイアが、観る者に背を向けるように超然と立ちます。治癒の讃歌を期待した医学部にとって、病と死に無関心にすら見えるこの女神は挑発と映り、検察が押収を検討するほどのスキャンダルとなりました。

《法学》(1903年)は最も苛烈です。画面上方の遠景に真理・正義・法の三女神が小さく描かれる一方、画面の主役は、蛸のような怪物に絡め取られ、三人の復讐の女神に囲まれて処罰を受ける裸の老人。法の威厳ではなく、罰せられる人間の側から見た法の恐怖を描いたと解釈され、決定的な断絶を招きました。
国家との決別
1905年、クリムトは絵の引き渡しを拒み、支払われていた報酬を返還して契約を解消します。「検閲はもうたくさんだ。私は自由を求める」という趣旨の彼の言葉は、芸術家の自律をめぐる宣言として名高いものです。以後クリムトは公的委嘱から離れ、《接吻》に代表される「黄金様式」の時代へと向かいました。三部作は実業家アウグスト・レーデラーらのコレクションに入りますが、ユダヤ系だった同家の財産はナチスに接収され、作品は他のクリムト作品とともにインメンドルフ城へ疎開。1945年5月、撤退する親衛隊が城に火を放ち(放火の経緯には諸説あります)、三部作は灰になりました。
焼失後の「姿」
現存するのは白黒写真と、《医学》のヒュギエイア部分を撮影したカラー図版などわずかな記録のみです。近年では、残された写真と同時代の批評記事の色彩描写、クリムトの他作品の分析をもとに、機械学習を用いて三部作の色彩を推定復元する試み(2021年公開)も行われ、「幻の天井画」はデジタルの領域で部分的に蘇りつつあります。ただしこれらはあくまで推定であり、実物の色彩は永遠に失われたままです。
評価と影響
「学部の絵」事件は、芸術の自由と公共の期待が正面衝突した世紀転換期ウィーンの象徴的事件として、美術史・文化史の双方で語り継がれています。作品自体も、世紀末の生の哲学(ショーペンハウアーやニーチェの影響がしばしば指摘されます)を大画面の裸体群像へ翻訳した、クリムト芸術の頂点のひとつと評価されます。焼失という結末は、ナチス期の文化財収奪と破壊の歴史の一部でもあり、この三部作をめぐる物語は、芸術・権力・戦争の関係を考えるうえで今なお参照され続けています。
まとめ
「学部の絵」は、学問の勝利を描くはずの注文から、人間存在の闇を見つめる三つの幻視が生まれ、社会の拒絶と画家の決別、そして戦火による焼失へと至った、稀有な運命の連作です。写真でしか見られないにもかかわらず(あるいはそれゆえに)、この三部作は「見ることのできない傑作」として、クリムトの黄金の名画群とは別の重みで美術史に刻まれています。
