《メルクリウスとアルゴス(独:Merkur und Argus)》は、フランドル・バロックの巨匠ペーテル・パウル・ルーベンスが1635年から38年にかけて手がけた油彩画で、現在はドレスデンの絵画館(ゲメルデガレリー・アルテ・マイスター)に所蔵されている。神々の使者メルクリウスが、笛の音で百眼の巨人アルゴスを眠らせ、剣で討ち果たそうとする瞬間を描いたこの絵は、ギリシャ神話の陰謀と暴力が交差する劇的な場面だ。今回はこの神話の筋書きと、ルーベンスが同じ主題で描いたもう1枚の絵との違いについて見ていく。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ペーテル・パウル・ルーベンス(1577〜1640) |
| 制作年 | 1635〜38年 |
| 技法・素材 | 油彩・板 |
| サイズ | 約63×87.5cm |
| 所蔵 | 絵画館アルテ・マイスター(ドレスデン) |
| 制作目的 | トーレ・デ・ラ・パラーダ(マドリード近郊の離宮)のための装飾画 |
一言でいうと
眠りを誘う笛の音色の裏で、暗殺者がそっと剣に手をかける。神々の愛憎劇が生んだ、静けさと暴力が同居する緊張の一瞬。
制作背景
オウィディウスの『変身物語』に基づく主題
この絵の主題は、古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』に語られるギリシャ神話に基づいている。天空の神ユピテル(ゼウス)は、妻ユノー(ヘラ)の巫女であったイーオーに恋をしてしまう。ユノーに関係を悟られることを恐れたユピテルは、イーオーを白い牝牛に変えて隠そうとするが、その計略を見抜いたユノーはこの牛を自分への贈り物として要求し、百の目を持つ巨人アルゴス・パノプテスに見張らせることにした。
メルクリウスの策略
ユピテルは、自らの狡猾な使者メルクリウス(ヘルメス)にアルゴスを討つよう命じる。メルクリウスは道すがら盗んだヤギの群れを追いながら牧場に近づき、笛の調べでアルゴスを魅了する。眠りに落ちたアルゴスに、メルクリウスはそっと剣を構え、その首を討ち果たすことになる。ルーベンスはこの絵で、伝統的なパンフルートではなく、縦笛のような楽器をメルクリウスに持たせて描いている。
ドレスデン版とプラド版、2つの「メルクリウスとアルゴス」
ルーベンスは同じ主題、同じ題名の作品をもう1枚手がけており、1636年から38年に板ではなくカンヴァスに描かれたその作品は、現在マドリードのプラド美術館に所蔵されている。両者はいずれもマドリード近郊の離宮トーレ・デ・ラ・パラーダを飾るために制作されたものだが、描かれた瞬間には違いがある。やや早い時期に制作されたドレスデン版では、メルクリウスがまだ剣に手を伸ばしている最中の場面が描かれているのに対し、プラド版ではすでに斬撃の瞬間そのものが描かれている。
見どころ

笛を吹くメルクリウスの緊張
画面左、メルクリウスは笛を口に当てながらも、その視線は油断なくアルゴスへ注がれている。優雅な音楽を奏でる姿と、暗殺の機を静かにうかがう視線という二重性が、この人物の緊張感を際立たせている。
眠りに落ちるアルゴス
画面中央、木にもたれかかるようにして眠り込むアルゴスの姿が描かれている。筋骨隆々とした体つきでありながら、無防備に崩れ落ちるその姿勢が、これから訪れる悲劇を静かに予感させている。
そばに佇む白い牝牛
画面右には、この物語の発端となった白い牝牛、すなわち姿を変えられたイーオーが描かれている。何も知らずに草を食む牛の姿が、この神話の悲劇性をさらに際立たせている。
イタリア・ルネサンス版画に基づく構図
この絵の構図は、イタリア・ルネサンス期の版画を下敷きにしていると考えられている。メルクリウスの体の動きは古典彫刻の律動を思わせ、3人の人物が織りなす対角線的な構成と体のひねり(スコルツォ)には、ルーベンスならではのバロック様式の躍動感が発揮されている。
実際に見るには
本作はドレスデンの絵画館アルテ・マイスターに所蔵されている。同じ主題を描いたプラド美術館所蔵版とあわせて見ることで、ルーベンスが同じ物語のどの瞬間を選んで描いたのか、その演出の違いを比較することができる。
よくある誤解
この絵はしばしば「単なる神話上の一場面」として片付けられがちだが、実際には笛の音による誘惑と剣による暗殺という、静と動が同居する緊張感が計算し尽くされた構成になっている。牧歌的な音楽の場面に見えて、実はこれから起こる暴力の予兆が画面全体に張り詰めている点が、この絵の見どころといえる。
FAQ
Q. 《メルクリウスとアルゴス》はどこで見られますか?
ドレスデンの絵画館アルテ・マイスターに所蔵されている。
Q. この絵はどんな神話を描いていますか?
ユピテルの命を受けたメルクリウスが、笛の音でアルゴスを眠らせ、白い牝牛に姿を変えられたイーオーを取り戻そうとする場面を描いている。
Q. なぜ同じ題名の絵がもう1枚存在するのですか?
マドリード近郊の離宮トーレ・デ・ラ・パラーダのために、板とカンヴァスでそれぞれ描かれた2枚が存在し、現在はドレスデンとマドリードのプラド美術館に分かれて所蔵されている。
Q. 2枚の絵の違いは何ですか?
ドレスデン版はメルクリウスが剣に手を伸ばす直前の場面、プラド版はすでに斬撃が行われている瞬間を描いている。
Q. 白い牛は何を表していますか?
ユピテルの恋人イーオーが、ユノーの目を逃れるために姿を変えられた牝牛である。
まとめ
《メルクリウスとアルゴス》は、笛の音で相手を眠らせ、その隙に剣を振るうという神話の一瞬を、静けさと緊張感が同居する構図で描き切った1枚だ。同じ主題を描いたプラド版とあわせて見比べると、ルーベンスがこの神話のどの瞬間に最も劇的な効果を見出していたのかがよくわかる。
