システィーナ礼拝堂の天井を見上げたことがある人は多いでしょう。あの巨大な絵は、キャンバスに描いて後から貼り付けたものではありません。塗ったばかりの湿った壁に、絵の具を直接染み込ませて描かれています。やり直しのきかない、一発勝負の技法です。この記事では、フレスコ画がどんな仕組みで描かれ、なぜこれほどの耐久性を持つのかを解説します。
定義
フレスコ画とは、水で溶いた顔料を、塗り立てで湿った石灰漆喰の壁に直接塗り込む、壁画の技法を指します。「フレスコ」はイタリア語で「新鮮な」「生乾きの」を意味する言葉で、まさに乾く前の壁を使うことから、この名がつきました。漆喰が乾燥していく過程で、顔料は壁そのものと化学的に結びつき、表面に絵の具の膜が乗っているのではなく、壁の一部として定着します。これが、フレスコ画の耐久性の秘密です。
具体例
フレスコ画の特徴は、次のような点によく表れています。
- ミケランジェロが手がけたシスティーナ礼拝堂の天井画は、約500平方メートルの面積に、300を超える人物像を描いた、大規模なフレスコ作品である
- ポンペイの遺跡に残るローマ時代のフレスコは、紀元後79年の火山灰に埋もれながらも、今日まで鮮やかな色を保っている
- 顔料は、アルカリ性の漆喰に耐えられる鉱物由来のもの(黄土・辰砂・アズライトなど)に限られていた
- 1980年から94年にかけて行われたシスティーナ礼拝堂の洗浄作業では、何世紀分もの煤や汚れが取り除かれ、当時の鮮やかな色彩が蘇っている
背景
フレスコ画がいつ、どこで始まったのかは、はっきりとはわかっていません。しかし、クレタ島クノッソスのミノア文明の壁画や、古代ローマのポンペイの邸宅など、非常に古い時代から、この技法が使われていたことが確認されています。その後、13世紀末から16世紀半ばにかけてのイタリア・ルネサンス期に、フレスコ画は黄金時代を迎えました。チマブーエ、ジョット、マサッチオ、フラ・アンジェリコといった画家たちが、この技法で数々の傑作を残し、ラファエロのヴァチカン宮殿の壁画や、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂は、その頂点として今日まで語り継がれています。
主要な概念
ブオン・フレスコという「本物」の技法
フレスコには、大きく分けて2つの技法があります。一つは「ブオン・フレスコ」で、イタリア語で「真の」「本物の」フレスコを意味します。まず壁に石灰漆喰を3層に分けて塗り重ね、最後の滑らかな層(イントナコ)が湿っているうちに、絵を描き込みます。下絵は、実物大の紙型(カルトーン)に穴を開け、その上から顔料の粉をはたいて、輪郭を壁に写し取る方法が一般的でした。顔料は水に溶いただけのシンプルなもので、漆喰に一瞬で吸い込まれていくため、描き直しはほぼ利きません。この一発勝負の緊張感こそが、ブオン・フレスコの特徴です。
一日でできる範囲、「ジョルナータ」
漆喰は乾き始めると、それ以上顔料を吸い込まなくなってしまいます。そのため画家は、その日のうちに描き終えられる分だけ、漆喰を塗るという段取りを取っていました。この「一日の作業分」を、イタリア語で「ジョルナータ」と呼びます。ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の天井画を、およそ4年をかけて、300回近いジョルナータの積み重ねで完成させたと考えられています。作業は、床から組んだ足場ではなく、天井付近に架け渡した特製の足場の上で行われ、仰向けに寝転がってではなく、首を反らして見上げる姿勢で描いていたことが、今日ではわかっています。
乾いた壁に描く「セッコ」技法
もう一つの技法が「フレスコ・セッコ」で、こちらは乾いた漆喰の上に、石灰水で溶いた顔料を塗る方法です。表面に薄い膜として乗るだけなので、漆喰そのものと一体化することはなく、ブオン・フレスコに比べると、時間が経つにつれて剥落しやすいという弱点があります。細部の描き込みや、後からの手直しには向いており、ミケランジェロも顔の表情など、繊細な部分にはこの技法を使った可能性があると、指摘されています。レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》は、このセッコ技法を中心に、油彩やテンペラも組み合わせるという、実験的な手法で描かれました。結果として、完成後まもなく絵の具が剥がれ始めるという、技術的な代償を払うことになっています。
現代への影響
フレスコ画は、建築と一体化した芸術という、他の絵画技法にはない性質を持っています。壁そのものが絵の一部になるため、額装して持ち運ぶことはできませんが、その分、数百年、時には2000年近くを経ても、色あせない耐久性を発揮してきました。この技法は、20世紀に入ってからも、メキシコの壁画運動を率いたディエゴ・リベラらによって受け継がれ、公共空間を彩る壁画という形で、今日まで生き続けています。
よくある誤解
誤解①「ミケランジェロは、仰向けに寝転がってシスティーナ礼拝堂を描いた」
映画やイラストでよく描かれるイメージから、寝転がって天井に絵を描いたと思われがちです。しかし実際には、彼は天井近くまで組んだ特製の足場の上に立ち、首を反らして見上げる姿勢で作業していました。この体勢が、彼の首や背中に長年の負担を残したと伝えられています。
誤解②「フレスコ画は、絵の具を壁に塗るだけの、単純な技法である」
「壁に描く」という言葉の響きから、単純な作業のように思われがちですが、実際にはブオン・フレスコは、その日のうちに塗った漆喰が乾く前に描き終えなければならず、しかも一度吸い込まれた顔料はやり直しがききません。緻密な計画と、迷いのない筆運びが同時に求められる、極めて高度な技法です。
FAQ
Q. フレスコ画とは何ですか?
A. 塗り立てで湿った石灰漆喰の壁に、水で溶いた顔料を直接塗り込む、壁画の技法です。乾燥する過程で顔料が壁と化学的に結びつき、耐久性の高い絵になります。
Q. ブオン・フレスコとフレスコ・セッコの違いは何ですか?
A. ブオン・フレスコは湿った漆喰に描くため耐久性が高く、フレスコ・セッコは乾いた漆喰に描くため、細部の描き込みには向きますが、時間とともに剥落しやすいという違いがあります。
Q. なぜフレスコ画はやり直しがきかないのですか?
A. 顔料が湿った漆喰に触れると、ほぼ瞬時に吸い込まれてしまうためです。そのため画家は、その日に描き終えられる範囲だけ漆喰を塗る「ジョルナータ」という作業単位で、少しずつ描き進めていました。
Q. ミケランジェロはどんな姿勢でシスティーナ礼拝堂を描いたのですか?
A. 仰向けに寝転がっていたというのは誤解で、実際には天井近くに組んだ足場の上に立ち、首を反らして見上げる姿勢で描いていました。
まとめ
フレスコ画の魅力は、絵の具が壁の表面に乗るのではなく、壁そのものの一部になってしまうという点にあります。乾く前に描き切らなければならないという制約は、画家にとって大きなプレッシャーだったはずですが、その緊張感が、2000年近い時を超えて色あせない絵を生み出してきました。ポンペイの遺跡からシスティーナ礼拝堂まで、次にフレスコ画を目にする機会があれば、その一筆が二度と直せない一発勝負だったことを、思い出してみてください。
