《階段を降りる裸体 No.2》(1912年)は、フランスの前衛芸術家マルセル・デュシャンによる油彩画で、アメリカ・フィラデルフィア美術館が所蔵する作品です。連続する残像のような筆致で、階段を降りる人体の動きを描いたこの絵は、1913年のニューヨーク・アーモリーショーでアメリカを揺るがす大論争を巻き起こした問題作でありながら、実はその公開に先立ち、同じキュビストの仲間たちから真っ先に拒絶されるという、意外な始まりを経ていました。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | マルセル・デュシャン(1887〜1968) |
| 制作年 | 1912年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 147×89.2cm |
| 所蔵 | フィラデルフィア美術館(ルイーズ&ウォルター・アレンズバーグ・コレクション) |
| 初出展 | 1912年、バルセロナ「キュビスム美術展」(ダルマウ画廊) |
| 話題となった展覧会 | 1913年、ニューヨーク・アーモリーショー |
一言でいうと
《階段を降りる裸体 No.2》は、幾重にも重なる残像のような筆致によって、階段を降りる人体の動きを描いた作品でありながら、1912年のパリ・アンデパンダン展では、あろうことか仲間のキュビストたち自身から「あまりに未来派的すぎる」として拒絶され、その後1913年のニューヨーク・アーモリーショーでは一転、アメリカの観客を震撼させる大スキャンダルを巻き起こした、稀有な運命をたどった一枚である。
制作背景
この絵は当初、1912年のパリ・アンデパンダン展への出品を意図して制作されましたが、興味深いことに、展示の可否を決める審査を行っていたのは、他ならぬキュビストの画家仲間たちでした。彼らは、この絵に描かれた動きの表現があまりにも「未来派的」だと判断し、デュシャンに撤回か改題を求めたと伝えられています。デュシャンはこれに異議を唱えることなく、静かに絵を取り下げました。行き場を失ったこの絵は、代わりに同年4月から5月にかけて、バルセロナのダルマウ画廊で開催された「キュビスム美術展」に出品されることになります。
その後1913年、美術家ウォルター・パックの選定により、この絵はニューヨークで開催される「国際近代美術展」、通称「アーモリーショー」へと送られました。この展覧会は、当時のアメリカに初めてヨーロッパの前衛美術をまとめて紹介する、歴史的な機会となりました。
見どころ

動きの表現:この絵は、キュビスムの断片化された造形と、未来派特有の連続する動きの表現とを融合させ、まるでエドワード・マイブリッジが撮影した連続写真『動く馬』(1878年)のような、多重露光を思わせる視覚効果を生み出しています。画面には、階段を降りる人体の各瞬間の姿勢が、幾重にも重なり合うように描き込まれています。
「裸体」の正体をめぐる謎:この絵に描かれた人物像には、年齢や個性、性格を示す手がかりが一切なく、その正体は今日まで謎に包まれています。興味深いことに、題名にあるフランス語「ヌ(裸体)」は文法上男性名詞であり、この人物が男性なのか女性なのかという疑問すら、デュシャン自身によって明確に答えられたことはありませんでした。
評価と論争
1913年のアーモリーショーでこの絵が公開されると、写実的な絵画に慣れ親しんでいたアメリカの観客たちは大きな衝撃を受け、風刺漫画家たちはこの絵を茶化したパロディ作品(「階段を降りる不作法者」と題された有名な戯画など)を次々と発表しました。しかし興味深いことに、デュシャン自身は1967年、没する直前のインタビューで、この絵への関心の多くは、実は視覚的な内容そのものよりも、その「題名」そのものが生み出したものだったのではないかと振り返っています。実際、同時に展示されていた他のキュビスムや未来派の作品と比べても、この絵の視覚表現自体が特別に過激だったわけではありませんでした。詩人ギヨーム・アポリネールは、1913年に刊行した著書『キュビスムの画家たち』の中で、この絵を図版として紹介しています。
この騒動にもかかわらず、あるいはその騒動のおかげで、デュシャンがアーモリーショーに出品した4点の絵はすべて売却されました。この成功が、彼が1915年にアメリカへ移住する際の資金の一助となり、渡米後のデュシャンは、思いがけずすでに有名人として迎えられることになります。この絵の制作された1911〜12年頃は、デュシャンにとって画家としての活動の絶頂期でしたが、その後まもなく彼は伝統的な絵画制作から離れ、既製品を用いた「レディメイド」という新たな芸術概念へと向かっていくことになります。
よくある誤解
誤解①「この絵は保守的な伝統主義者たちから最初に拒絶された」→ 実際は仲間のキュビストの画家たちから拒絶された
前衛美術への反発から拒絶されたと思われがちですが、実際にこの絵を最初に拒絶したのは、1912年のパリ・アンデパンダン展を運営していた、デュシャン自身の仲間であるキュビストの画家たちでした。
誤解②「アーモリーショーでの騒動は、絵の視覚的な内容そのものが引き起こした」→ 実際はデュシャン自身、題名の力が大きかったと振り返っている
衝撃的な視覚表現がスキャンダルを引き起こしたと思われがちですが、実際にはデュシャン自身が、この絵への関心の多くは題名そのものによるものだったと後年振り返っており、視覚表現自体は同時に展示された他の作品と比べて特別に過激だったわけではありませんでした。
FAQ
Q. 《階段を降りる裸体 No.2》とはどんな作品ですか?
A. デュシャンが1912年に手がけた油彩画で、階段を降りる人体の動きを、連続する残像のような筆致で描いています。フィラデルフィア美術館が所蔵しています。
Q. なぜこの絵は仲間のキュビストから拒絶されたのですか?
A. 1912年のパリ・アンデパンダン展の審査を担当していたキュビストの画家たちが、この絵の動きの表現を「あまりに未来派的すぎる」と判断したためです。
Q. なぜこの絵はアーモリーショーで大きな話題になったのですか?
A. 写実的な絵画に慣れていたアメリカの観客に大きな衝撃を与え、風刺漫画家たちのパロディの題材にもなりましたが、デュシャン自身は、その関心の多くが題名そのものによるものだったと振り返っています。
Q. 《階段を降りる裸体 No.2》はどこで見られますか?
A. アメリカ・フィラデルフィア美術館が所蔵しています。
まとめ
《階段を降りる裸体 No.2》は、幾重にも重なる残像のような筆致によって、階段を降りる人体の動きを描いた作品でありながら、1912年のパリ・アンデパンダン展では、あろうことか仲間のキュビストたち自身から「あまりに未来派的すぎる」として拒絶され、その後1913年のニューヨーク・アーモリーショーでは一転、アメリカの観客を震撼させる大スキャンダルを巻き起こした、稀有な運命をたどった一枚です。身内に拒まれてから1年足らずで大西洋の向こうを騒然とさせたこの一枚は、110年以上経った今も、その落差の激しさを物語っています。
