《睡蓮》(1916年)は、印象派の巨匠クロード・モネが晩年に描いた油彩画で、東京・上野の国立西洋美術館が所蔵しています。実業家・松方幸次郎がモネのもとを訪ねて直接入手した作品のひとつで、同館の礎となった「松方コレクション」を代表する一枚です。水面に浮かぶ花と、水に映る景色だけで画面を埋め尽くした、モネ晩年の境地を日本で見られる貴重な作例でもあります。
基本情報

作者はクロード・モネ(1840〜1926)、制作年は1916年。技法は油彩・カンヴァスで、所蔵は国立西洋美術館(松方コレクション)です。モネがパリ近郊ジヴェルニーの自邸に造った睡蓮の池を主題に、生涯で数多く描いた連作の一点にあたります。
制作背景|池を描き続けた晩年
モネは1883年にジヴェルニーへ移り住み、1893年ごろには庭に水を引いて睡蓮の池をつくりました。この池はやがて、彼の制作のほぼ唯一の主題になっていきます。睡蓮の連作に取り組み始めたのは1890年代末ごろで、晩年は視力の衰えと闘いながら、画面をいっそう大きく、いっそう抽象的にしていきました。
1916年は、第一次世界大戦のさなかです。モネは戦火のフランスで、巨大な睡蓮の装飾画の構想を温めつつ、制作を続けていました。本作は、その大画面の探究が進んだ時期に描かれています。
松方幸次郎とモネ
本作を日本にもたらしたのは、神戸の川崎造船所の初代社長だった松方幸次郎(1866〜1950)です。松方は1910年代半ばから1920年代半ばにかけて、ロンドンやパリで西洋美術を大量に買い集めました。目的は、日本の芸術家や人々のための公共の美術館をつくることでした。その数は3000点を超えるとされ、浮世絵を加えれば1万点を超える規模だったことがわかっています。
松方はモネのアトリエを訪れ、本人から直接作品を購入しています。《睡蓮》もそのひとつです。巨匠の手元から、そのまま日本の収集家のもとへ渡ったという来歴は、作品の価値をいっそう確かなものにしています。
ただし、このコレクションは平穏な道をたどりませんでした。1927年の昭和金融恐慌で川崎造船所が経営破綻すると、日本に届いていた作品は売り立てられ、ヨーロッパに残された作品も散らばっていきます。ロンドンでは保管先の火災で作品が焼失するなど、大きな損失も出ました。戦後の1959年、フランスに残っていた作品群が日本に寄贈返還され、これを収める場として国立西洋美術館が開館します。
見どころ|水面だけで埋め尽くされた画面

ほぼ正方形の画面には、岸も空も、地平線もありません。描かれているのは、水面に浮かぶ睡蓮の花と葉、そして水に映る景色だけです。縦に走る青や緑の長い筆致は、岸辺の木々など、画面の外にあるものが水に映り込んだ姿を思わせます。見ているうちに、池の表面を見下ろしているのか、水の奥を覗き込んでいるのか、わからなくなってきます。
葉の群れは画面のあちこちに散らばり、下のほうでは大きく、上のほうでは小さくなっています。奥行きはわずかに感じられるものの、はっきりした遠近の目印はなく、それが画面の浮遊感を生んでいます。青と緑が支配する中で、赤や黄色の花が点々と灯り、視線の休み場所になっているのも印象的です。
筆の跡ははっきりと残り、色は幾重にも重なっています。近づくと色の塊に見える画面が、離れると静かな水面に変わる。晩年のモネは、対象の姿を写すよりも、光と水が生む色の移ろいそのものを描こうとしました。その切り替わりこそ、後期作品の醍醐味です。
もう一つの《睡蓮》|60年ぶりに見つかった大作
国立西洋美術館には、1916年の《睡蓮》がもう一点あります。《睡蓮、柳の反映》です。この大作は長く行方がわからなくなっていましたが、2016年9月、パリのルーヴル美術館の一角で発見されました。ルーヴルの所蔵品ではなく、接収作品を管理していたフランスの美術館局が同館の一角を間借りしていたことから見つかった、という経緯があります。

作品は戦時中に農家へ疎開していたとみられ、上下逆さに保管されたうえ、湿気で上部が大きく欠損していました。木枠もなく布だけの状態で、触れると崩れ落ちるほど傷んでいたといいます。松方家から国立西洋美術館に寄贈されたのち、約1年で修復が行われ、2019年の「松方コレクション展」で初公開されました。欠損部分については、デジタルで推定復元するプロジェクトも行われています。散逸と喪失を経た松方コレクションの歴史を、そのまま映すような一枚です。
評価と影響
《睡蓮》は、松方コレクションの核をなす作品として、同館の顔であり続けています。モネの睡蓮は、印象派の枠を超えて、のちの抽象絵画へつながる出発点としても語られます。中心を決めずに画面全体を満たす構成は、20世紀の絵画に大きな影響を与えました。日本にいながらモネ晩年の水面に向き合えることは、松方の収集がもたらした大きな遺産のひとつです。
まとめ
《睡蓮》は、巨匠のアトリエから日本の実業家の手へと渡り、戦争と恐慌による散逸を経て、いま上野の美術館に収まっている作品です。静かな水面の裏側に、一人の収集家の夢と、コレクションの数奇な運命が重なっています。

