《泉》(1917年)は、フランス出身の芸術家マルセル・デュシャンが手がけたレディメイド(既製品)彫刻です。市販の男性用小便器を横倒しにして「R. マット」と署名しただけのこの作品は、2004年の専門家投票で「20世紀で最も影響力のある美術作品」に選ばれながら、肝心のオリジナルは制作から間もなく行方不明になったまま、今なお見つかっていないという、逆説に満ちた作品です。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | マルセル・デュシャン(1887〜1968) |
| 制作年 | 1917年 |
| 技法・素材 | 陶製の男性用小便器(既製品)・署名 |
| オリジナルの現況 | 1917年に行方不明、以後未発見 |
| 現存する作品 | 1964年にデュシャンが承認した複製17点が各国の美術館に分蔵 |
| 分類 | レディメイド(既製品の芸術作品) |
一言でいうと
《泉》は、街の金物店で買ってきた市販の小便器を、ただ横倒しにして偽名で署名しただけの作品でありながら、「芸術家が何かを選び取るという行為そのものが芸術になりうる」という概念を20世紀美術に突きつけ、2004年には専門家投票で「最も影響力のある近代美術作品」の1位に選ばれた、逆説に満ちたレディメイド彫刻である。

制作背景
1917年当時、デュシャンはニューヨークで結成されたばかりの「独立芸術家協会」の創立メンバーの一人でした。この協会は、審査員による選考を一切行わず、参加費さえ払えばどんな作品でも展示するという「無審査」の理念を掲げていました。デュシャンはこの理念が本当に貫かれるのかを試すべく、収集家ウォルター・アレンズバーグと画家ジョゼフ・ステラを伴い、配管金物店J・L・モット・アイアン・ワークスのショールームで陶製の小便器を購入します。
彼はこれを横倒しにし、「R. マット」という架空の署名と「1917」の日付を書き入れ、《泉》と題してフィラデルフィアの「リチャード・マット」なる人物の作品として、協会の第1回展覧会に匿名で出品しました。しかし協会の役員会は、「無審査」の方針に反してこの作品を拒否し、会場では衝立の裏に隠されてしまいます。デュシャン自身は当時、協会の役員の一人でもありましたが、この決定に抗議して役員を辞任し、アレンズバーグもそれに続きました。
見どころ

「選ぶこと」がもたらす転換:写真家アルフレッド・スティーグリッツは、拒否された《泉》を自身のギャラリー「291」に持ち込み、画家マースデン・ハートリーの抽象画を背景にこの作品を撮影しました。この時撮られた一枚の写真こそが、今日私たちが知る《泉》の姿を伝える、もっとも重要な記録となっています。というのも、この撮影の直後、オリジナルの小便器は忽然と姿を消してしまい、以後今日に至るまで発見されていないからです。
匿名の擁護文:この事件をめぐり、雑誌『ザ・ブラインド・マン』に掲載された匿名の擁護記事(作家ビアトリス・ウッドの手によるものと考えられています)は、《泉》の本質を次のように説明しました。マット氏がその泉を自らの手で作ったかどうかは重要ではない。彼はそれを「選んだ」のだ。彼は日常にあるありふれた品物を手に取り、その実用的な意味が消え去るように配置し、新しい題名と新しい視点のもとに、その対象へと新たな思考を生み出したのだ、と。
誰が本当に選んだのか:近年の研究では、《泉》の真の発案者をめぐる興味深い議論も浮上しています。デュシャンが妹シュザンヌに宛てた当時の手紙には、「私の女友達の一人が、男性の偽名リチャード・マットを使って、陶製の小便器を彫刻として出品した」という一節が残されており、この記述から、ドイツ出身のダダイスト、エルザ・フォン・フライターク=ロリングホーフェン男爵夫人こそが真の発案者だったのではないかとする説も、研究者の間で議論されています。
評価と影響
《泉》に代表される「レディメイド」という概念は、既製の工業製品を、作者がただ「選び、署名する」だけで芸術作品へと変容させるという、それまでの芸術観を根本から覆すものでした。芸術家の役割を「手で作ること」から「選び、意味づけること」へと転換させたこの発想は、後にジョン・ケージやロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズといった芸術家たちに大きな影響を与え、現代のコンセプチュアル・アート全体の礎の一つとなっています。
オリジナルが失われた後、デュシャンは1964年、公式の複製17点の制作を承認しました。これらの複製は、フィラデルフィア美術館やテート・モダン、サンフランシスコ近代美術館、ポンピドゥー・センターなど、世界各地の主要美術館に収蔵され、現在私たちが目にする《泉》は、いずれもこれらの複製です。2004年には、英国の美術専門家500人を対象にした調査で、《泉》はピカソの《アヴィニョンの娘たち》やウォーホルの《マリリン・ディプティック》を抑え、「20世紀で最も影響力のある近代美術作品」の第1位に選ばれました。
よくある誤解
誤解①「美術館で展示されている《泉》はデュシャンが実際に購入したオリジナルである」→ 実際はオリジナルは行方不明のままで、展示品はすべて後年の複製である
今日世界各地の美術館に展示されている《泉》を見て、これが1917年に購入された本物の小便器そのものだと思われがちですが、実際にはオリジナルはスティーグリッツによる撮影の直後に行方不明となり、現在展示されているのは、1964年にデュシャン自身が承認した複製17点のうちのいずれかです。
誤解②「《泉》はデュシャン一人の単独の発想による作品である」→ 実際は真の発案者をめぐって近年議論がある
デュシャンの名を冠した代表作であることから、彼一人の着想による作品だと広く信じられていますが、実際にはデュシャン自身が妹に宛てた手紙に「女友達が偽名で出品した」という記述が残されており、近年の研究では、ダダイストのエルザ・フォン・フライターク=ロリングホーフェン男爵夫人が真の発案者だった可能性も議論されています。
FAQ
Q. 《泉》とはどんな作品ですか?
A. デュシャンが1917年に手がけたレディメイド彫刻で、市販の男性用小便器を横倒しにし、「R. マット」という偽名で署名しただけの作品です。既製品を芸術作品として提示するという、当時としては革命的な手法でした。
Q. なぜ「拒否された」のに有名になったのですか?
A. 独立芸術家協会の「無審査」という理念に反して展示を拒否されたこと自体が大きな論争を呼び、その顛末を伝える雑誌記事や写真を通じて、この作品の持つ挑発的な意味が広く議論されるようになったためです。
Q. オリジナルの小便器は今どこにあるのですか?
A. 写真家アルフレッド・スティーグリッツによる撮影の直後に行方不明となり、以後今日まで発見されていません。現在美術館で見られるのは、1964年にデュシャンが承認した複製です。
Q. 「レディメイド」とはどういう意味ですか?
A. 工業製品などの既製品を、作者がわずかな加工や署名だけを加えて芸術作品として提示する手法のことで、《泉》はその代表例として知られています。
まとめ
《泉》は、街の金物店で買ってきた市販の小便器を、ただ横倒しにして偽名で署名しただけの作品でありながら、「芸術家が何かを選び取るという行為そのものが芸術になりうる」という概念を20世紀美術に突きつけ、2004年には専門家投票で「最も影響力のある近代美術作品」の1位に選ばれた、逆説に満ちたレディメイド彫刻です。肝心のオリジナルはとうに行方不明で、今日私たちが目にするのはすべて後年作られた複製ですが、それすら「本物とは何か」というデュシャンの悪戯の続きのように見えてきます。

