《死と乙女》(1517年)は、ドイツ・ルネサンスの画家ハンス・バルドゥング・グリーンによるテンペラ画で、スイスのバーゼル美術館が所蔵する作品です。骸骨の姿をした死が若い女性の髪をつかみ、墓を指し示すこの絵は、中世以来の「死の舞踏」の伝統に、あからさまな官能性を持ち込んだことで知られる、北方ルネサンス美術屈指の異色作です。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ハンス・バルドゥング・グリーン(1484/85年頃〜1545) |
| 制作年 | 1517年 |
| 技法・素材 | テンペラ・板(菩提樹材) |
| サイズ | 約30.3×14.7cm |
| 所蔵 | バーゼル美術館(スイス) |
| 別名 | 《死と欲望》 |
| モチーフ | 「死と乙女」(Der Tod und das Mädchen) |
一言でいうと
《死と乙女》は、骸骨の姿をした死が若い女性の髪をつかみ、墓へと連れ去ろうとする場面を描きながら、その骸骨がまるで恋人のように女性の身体に腕を絡めているという細部によって、恐怖と官能とが分かちがたく結びついた「死の舞踏」の伝統を、極限まで研ぎ澄ませた作品である。
制作背景
「死と乙女」(ドイツ語:Der Tod und das Mädchen)は、北方ルネサンス期のドイツ美術、とりわけ絵画や版画において好んで扱われた主題です。中世以来「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」として発展してきたこの図像伝統に、あからさまな官能性が付け加えられ、若い女性が骸骨姿の死に連れ去られる場面として定型化されていきました。
作者のハンス・バルドゥングは、アルブレヒト・デューラーに師事した弟子の中でも最も才能に恵まれた一人とされ、緑色を好んだことから「グリーン(緑の)」というあだ名で呼ばれるようになった人物です。彼はこの「死と乙女」という主題を、生涯にわたって繰り返し描いており、同じ1517年には別バージョンの《死と女》も手がけているほか、後年には《女の七つの年齢》(1544年)や《人生の三段階と死》といった、女性の老いと死をめぐる連作にも取り組んでいます。
見どころ

構図
画面左側には、皮膚が干からびて茶褐色に変色した骸骨姿の死が立ち、右手で若い女性の長い髪をわしづかみにし、もう一方の手を高く掲げて、墓を指し示すかのような、皮肉めいた祝福の仕草を見せています。頭上には「HIE MUST DU YN(ここに、お前は行かねばならない)」という銘文が記され、右上には制作年である「1517」の文字が読み取れます。
図像学
髪をつかまれた女性は涙を流し、取り乱した表情で虚空を見つめながら、両手を握りしめて死に懇願するような仕草を見せています。自らの運命を悟りながらも、なお抗おうとするその姿は、伝統的な死の寓意画の中でもとりわけ心理的な緊張感に満ちています。女性はほとんど何もまとわず、半透明の薄い布だけが身体にまとわりついており、この官能的な裸体表現は、単なる死の恐怖だけでなく、若さと美への未練、そして死そのものが持つ欲望めいた側面をも同時に描き出しています。死の骨ばった腕が女性の体に絡みつくように配置されている点も、恋人同士の抱擁を思わせる構図として指摘されてきました。
技法
わずか30センチほどの小さな板絵でありながら、骸骨の朽ちた皮膚の質感や、女性の波打つ長い髪の一筋一筋まで、驚くほど精緻な筆致で描き込まれています。暗い背景の中に、干からびた死の褐色と、女性の白い肌とが強烈なコントラストを生み出しています。
評価
この主題は「死の舞踏」から派生し、官能的な下地を加えて発展したものとされており、バルドゥングはこの主題を繰り返し手がけた代表的な画家として知られています。19世紀以降、この作品はロマン主義時代に再び脚光を浴び、フランツ・シューベルトが同名の歌曲《死と乙女》(マティアス・クラウディウスの詩による)を作曲し、その旋律を転用した弦楽四重奏曲第14番もまた「死と乙女」の名で親しまれるようになりました。20世紀のエゴン・シーレによる同名作品(1915年)をはじめ、この主題は後世の芸術家たちにも繰り返し受け継がれています。
よくある誤解
誤解①「この絵はバルドゥングが唯一手がけた『死と乙女』である」→ 実際は同じ主題を生涯にわたり繰り返し描いている
この一枚がバルドゥングにとって独自の着想による唯一無二の作品だと思われがちですが、実際には彼は同じ1517年に《死と女》という別バージョンを手がけているほか、《女の七つの年齢》や《人生の三段階と死》など、女性の老いと死という共通のテーマを生涯にわたって繰り返し探求しています。
誤解②「大画面の壁画や祭壇画である」→ 実際は縦30センチほどの小さな板絵である
描写の緻密さや主題の重さから、大規模な祭壇画のような作品を想像しがちですが、実際にはこの絵は縦約30センチ、横約15センチという、手のひらに収まるほどの小さな板絵です。
FAQ
Q. 《死と乙女》とはどんな作品ですか?
A. バルドゥングが1517年に描いたテンペラ画で、骸骨姿の死が若い女性の髪をつかみ、墓へと連れ去ろうとする場面を描いています。バーゼル美術館が所蔵しています。
Q. なぜ「死と乙女」という主題が繰り返し描かれたのですか?
A. 中世以来の「死の舞踏」の伝統に官能的な要素が加わり、若さと美の儚さ、そして死の不可避性を同時に描き出せる主題として、北方ルネサンス期のドイツ美術で好まれたためです。
Q. 頭上に書かれている文字は何を意味していますか?
A. 「HIE MUST DU YN(ここに、お前は行かねばならない)」というドイツ語で、死が女性に自らの運命を告げる言葉とされています。
Q. 《死と乙女》はどこで見られますか?
A. スイスのバーゼル美術館が所蔵しています。
まとめ
《死と乙女》は、骸骨の姿をした死が若い女性の髪をつかみ、墓へと連れ去ろうとする場面を描きながら、その骸骨がまるで恋人のように女性の身体に腕を絡めているという細部によって、恐怖と官能とが分かちがたく結びついた「死の舞踏」の伝統を、極限まで研ぎ澄ませた作品です。500年以上を経た今もなお、若さと美の儚さ、そして誰もが逃れられない死という主題を、鋭く突きつけ続けています。
