ベルン美術館に、横たわって眠る複数の裸体と、その中心で1人だけ目を見開いて飛び起きる男を描いた大作がある。《夜(独:Die Nacht、英:Night)》と題されたこの絵は、スイスの画家フェルディナント・ホードラーが1889年から1890年にかけて手がけたもので、発表直後にジュネーブで巻き起こったスキャンダルを経て、彼を象徴主義を代表する画家の1人へと押し上げた作品だ。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | フェルディナント・ホードラー(1853〜1918) |
| 制作年 | 1889〜1890年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| 所蔵 | ベルン美術館 |
貧しい家庭から画家へ
ホードラーはベルンの貧しい家庭に、大工の父と農家出身の母のもとに6人きょうだいの長男として生まれた。父を結核で早くに亡くし、母の再婚後も家族は困窮を極め、彼自身12歳で義父の工房を引き継ぎ、一家の生計を支えていたと伝えられている。そんな彼が本格的に画家としての道を歩み始めたのはジュネーブに移ってからのことで、コローの友人でアングルの弟子でもあったバルテルミー・マンに師事し、フランスやベルギーの象徴主義に触れる機会を得た。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの絵画との出会いをきっかけに、それまで受けていたクールベ的な写実主義の影響から離れ、独自の詩情豊かな様式を築き上げていったとされる。本作は、彼が初めて手がけた大画面の作品であり、この様式的な転換の到達点となった1枚である。
ジュネーブでの発禁とその後の逆転劇
1891年、本作はジュネーブのラート美術館での展示が予定されていたが、市当局によって「風紀を害する」とみなされ、開幕前に撤去されるという事態を招いた。しかしホードラーはこれで引き下がらず、自らの費用で別の会場を借りて本作を展示し、入場料を取るという独自の興行を打った。この一件は結果として大きな話題を呼び、彼はその収益を元手に、本作をパリ、ウィーン、そしてベルリンへと巡回させている。1898年にはベルリンの大美術展にも出品され、これが彼の国際的な名声を確立する契機となった。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌやオーギュスト・ロダンといった同時代の芸術家からも高く評価されたと伝えられている。
なお1901年には、ベルン美術館が本作を含む彼の象徴主義的な主要作4点(《夜》《昼》《幻滅せる魂》《律動》)をまとめて取得しており、これが現在同館の所蔵の核となっている。
見どころ

水平に並んで眠る裸体たち
画面には、複数の裸体が画面の横幅いっぱいに、規則正しく平行に並んで横たわっている。ホードラーはこうした反復するモチーフを規則的に配置する構成手法を「パラレリスム(並行主義)」と呼び、自身の象徴主義における独自の方法論として生涯にわたって追求した。
黒い布に覆われた不気味な人影
画面中央には、黒い布で全身を覆われた人影が、眠る男に覆いかぶさるように描かれている。この不吉な存在の正体は明示されないまま、見る者の想像に委ねられている。
飛び起きる男の恐怖の表情
黒い人影に組み付かれるようにして、1人の男だけが目を見開き、恐怖に顔をゆがめて飛び起きている。この人物はホードラー自身の自画像だとみなされており、深く眠り込む周囲の人々との対比が、画面全体に強い緊張感を与えている。
眠りと死という生涯のモチーフ
穏やかに眠り続ける者たちと、死を思わせる存在に恐れおののく中心人物との対比は、眠りが死とごく近しい関係にあるという、ホードラーが生涯を通じて繰り返し扱ったモチーフを象徴している。
実際に見るには
本作はベルン美術館の常設コレクションで見ることができる。同館には本作とともに取得された《昼》をはじめとする関連作品も所蔵されており、あわせて鑑賞することで、ホードラーが追求した「パラレリスム」という様式の広がりをより深く理解することができる。
FAQ
Q. 《夜》はどこで見られますか?
ベルン美術館に所蔵されている。
Q. なぜこの絵はスキャンダルになったのですか?
1891年、ジュネーブでの展示予定に対し、裸体表現が風紀を害するとみなされ、開幕前に展示が中止されたためである。
Q. 中央で飛び起きる男は誰ですか?
ホードラー自身の自画像だとみなされている。
Q. 「パラレリスム」とはどんな考え方ですか?
反復するモチーフを規則的に平行配置することで象徴的な効果を生み出す、ホードラー独自の様式的手法である。
Q. この絵はどのようにして国際的に知られるようになったのですか?
展示中止後、ホードラーが自費で私的に公開し、その収益をもとにパリやウィーン、ベルリンへと巡回させたことがきっかけとなった。
まとめ
《夜》は、ジュネーブでの発禁という逆境を、画家自身の巧みな興行によって国際的な名声へと転じさせた1枚だ。規則正しく眠る裸体たちと、黒い人影に恐れおののく中心人物との対比にこそ、眠りと死という、ホードラーが生涯抱き続けたテーマへの向き合い方が最もよく表れている。
