《汽車の中の悲しい青年》(仏:Nu(esquisse), jeune homme triste dans un train)は、フランスの美術家マルセル・デュシャンが1911年から1912年にかけて手がけた油彩画で、現在はヴェネツィアのペギー・グッゲンハイム・コレクションに所蔵されています。無数の線が反復するように重なり合うこの作品は、キュビスムの技法を土台にしながら、絵画のなかに「動き」と「時間」を持ち込もうとした、デュシャンにとって重要な転換点となった一枚です。この記事では、この絵に描かれた「悲しい青年」の正体と、翌年に生まれる彼の出世作へとつながっていく過程を見ていきます。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | マルセル・デュシャン(1887〜1968) |
| 制作年 | 1911〜1912年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| 所蔵 | ペギー・グッゲンハイム・コレクション(ヴェネツィア) |
| モデル | デュシャン自身 |
一言でいうと
《汽車の中の悲しい青年》は、パリからルーアンへ向かう汽車のなかでパイプをくゆらせるデュシャン自身の姿を、キュビスムの手法によって解体しながら、汽車の動きと青年の身体の揺れという2つの動きを同時に描き出そうとした作品です。
制作背景
パイプをくゆらせる自画像
画面のなかで揺れ動くように描かれているのは、パリから故郷ルーアンへと帰る汽車に乗るデュシャン自身の姿です。キュビスムを「単純化された線の反復」として理解していたデュシャンは、この技法を用いて、汽車という乗り物の動きと、そこに揺られる青年自身の身体の動きという、2つの異なる動きを並行して画面に描き込もうと試みました。
ピカビアとの出会い
本作が制作された1911年、デュシャンは画家フランシス・ピカビアと知り合い、彼から強い影響を受けています。この時期のデュシャンは、キュビスムだけでなく未来派の要素も取り入れながら、静止した対象を描くのではなく、時間の経過とともに変化する身体のイメージをいかに一枚の画面に定着させるかという課題に取り組んでいました。
《階段を降りる裸体》への布石
本作は、翌1912年に生まれるデュシャンの代表作《階段を降りる裸体No.2》へとつながる重要な布石となりました。連続写真を思わせる本作の表現手法は、写真家エドワード・マイブリッジが撮影した連続写真からの影響もうかがえ、身体の動きを重ね合わせて描くという、それまでのキュビスムにはなかった新しい試みへと発展していきます。
見どころ

反復する線が生む揺らぎ
画面全体には、茶色を基調とした角張った線が幾重にも反復するように描かれ、人物の輪郭は判然としません。タイトルを知って初めて、鑑賞者はこの茶色い塊のなかに「青年」の姿を見出そうと努めることになります。対象がはっきりと定まらないまま、視線があちこちに散らされていくこの効果こそが、本作の独特な緊張感を生み出しています。
「悲しさ」という言葉が誘う想像
本作は、タイトルの「悲しい」という言葉と、実際の画面の印象とを鑑賞者自身が結びつけようとする心理を利用した作品でもあります。対象が明確に描かれていないからこそ、見る者は言葉の暗示に導かれるようにして、そこに悲哀の感情を読み取ろうとするのです。
実際に見るには
本作はイタリア・ヴェネツィアのペギー・グッゲンハイム・コレクションに所蔵されています。翌年に発表され大きな論争を呼んだ《階段を降りる裸体No.2》はフィラデルフィア美術館に所蔵されており、あわせて見比べることで、デュシャンが動きの表現をどのように発展させていったかをたどることができます。
よくある誤解
本作はしばしば「単なるキュビスムの一作品」として片づけられがちですが、実際には対象を解体して再構築するキュビスムの手法に、動きと時間という新たな要素を持ち込もうとした、デュシャンの画業における重要な転換点です。翌年のパリ・アンデパンダン展で《階段を降りる裸体No.2》が仲間から批判されたことをきっかけに、デュシャンはキュビスムのグループから距離を置くようになりますが、本作はそこへ至る前段階の試みとして理解する必要があります。
FAQ
Q. 《汽車の中の悲しい青年》のモデルは誰ですか?
デュシャン自身で、パリから故郷ルーアンへ帰る汽車のなかでパイプをくゆらせる自画像です。
Q. なぜ人物の輪郭がはっきりしないのですか?
汽車の動きと青年の身体の動きという2つの動きを同時に表現しようとした結果、線が幾重にも反復する構成になっているためです。
Q. この作品はどんな流れにつながっていきますか?
翌1912年に発表される代表作《階段を降りる裸体No.2》へとつながる重要な布石となりました。
Q. デュシャンはこの時期どんな画家から影響を受けていましたか?
1911年に知り合った画家フランシス・ピカビアから強い影響を受けています。
Q. 現在この絵はどこにありますか?
イタリア・ヴェネツィアのペギー・グッゲンハイム・コレクションに所蔵されています。
まとめ
《汽車の中の悲しい青年》は、キュビスムの手法を土台にしながら、動きと時間という新しい要素を絵画に持ち込もうとしたデュシャンの試みを伝える作品です。翌年生まれる出世作《階段を降りる裸体No.2》への布石として見ることで、この一枚が持つ実験的な意義がより鮮明に浮かび上がってきます。
