《誕生日(L’Anniversaire)》(1915年)は、マルク・シャガールが故郷ヴィテブスク(現ベラルーシ)で描いた油彩画で、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵しています。花束を手にした恋人ベラと、重力を無視して宙に浮かび、身をよじって口づけする画家自身。シャガール芸術の代名詞ともいえる「浮遊する恋人たち」のイメージを決定づけた、最も有名な一枚です。
基本情報
作者はマルク・シャガール(1887〜1985)、制作年は1915年。技法は油彩・厚紙で、サイズは約80.6×99.7cm。所蔵はニューヨーク近代美術館です。描かれているのは画家の部屋の室内で、モデルは画家自身と、婚約者だったベラ・ローゼンフェルトです。
制作背景|結婚直前の幸福
シャガールは1910年からパリで活動し、キュビスムやオルフィスムの刺激を受けながら独自の幻想的な様式を築きつつありましたが、1914年に一時帰郷したところで第一次世界大戦が勃発し、故郷ヴィテブスクに足止めされます。この滞在中、彼は裕福な宝石商の娘ベラとの愛を実らせ、1915年7月に結婚しました。《誕生日》はその結婚の直前、まさに幸福の絶頂で描かれた作品です。
題名の「誕生日」は画家自身の誕生日を指します。ベラが後年の回想録に、彼の誕生日に花束を抱えて部屋を訪れたときの思い出を綴っており、部屋に飛び込んできた彼女と、絵筆を放り出して宙に舞い上がった画家という本作の情景は、その日の記憶を昇華したものと重ねて語られてきました。
見どころ|重力からの解放

本作の核心は、物理法則を超えた二人の姿にあります。ベラは花束を手にしたままつま先立ちで浮かび上がり、画家は空中で身体を弓なりに反らせ、首をあり得ない角度で背後へ回して口づけを与えています。この解剖学的に不可能な姿勢は、稚拙さではなく、身体の描写を感情の強度に従属させた結果です。「愛が人を浮き上がらせる」という誰もが知る比喩を、シャガールは文字どおりの視覚的事実として画面に定着させました。
足元に広がる赤い床と、細かく描き込まれた日常の品々(窓辺の様子、テーブルの上の小物、壁の布)も見逃せません。地上の生活の具体性がしっかりと描かれているからこそ、そこから浮かび上がる二人の非現実が際立ちます。幻想は日常の対極にあるのではなく、日常の只中から立ち上がるという、シャガール芸術の基本原理がここに凝縮されています。
評価と影響
《誕生日》は、シャガールが生涯にわたって繰り返し描くことになる「恋人たちの浮遊」という主題の原点的作品として評価されています。ベラは以後も彼の絵の中心であり続け、1944年に彼女が急逝した後も、その面影は描かれ続けました。夢と記憶と愛を絵画の主題として堂々と扱うシャガールの姿勢は、同時代の前衛からはしばしば距離を置かれましたが、のちのシュルレアリスムの画家たちは彼を先駆者として仰いでいます。
まとめ
《誕生日》は、戦争に足止めされた画家が、人生で最も幸福な瞬間を描きとめた一枚です。不可能な姿勢の口づけは、写実の放棄ではなく、感情の真実にかたちを与えるための飛躍でした。この絵の前で誰もが感じる浮遊感こそ、シャガールが生涯手放さなかった主題、「愛は世界の見え方を変える」ということの、最も純粋な表現だといえます。

