《蚤の幽霊》(英:The Ghost of a Flea)は、イギリスの詩人・画家ウィリアム・ブレイクが1819年から1820年ごろに手がけたテンペラ画で、現在はロンドンのテート・ブリテンに所蔵されています。筋骨隆々の異形の生き物が舞台のカーテンのあいだに立つこの小さな絵は、ブレイクが生涯を通じて経験し続けたという「幻視」の体験をもとに描かれており、彼の幻想画のなかでもとりわけよく知られた作品です。この記事では、この奇妙な生き物がどのようにして生まれたのか、その制作の経緯を見ていきます。
《蚤の幽霊》とは — 基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ウィリアム・ブレイク(1757〜1827) |
| 制作年 | 1819〜1820年ごろ |
| 技法・素材 | テンペラ・金彩・マホガニー板 |
| サイズ | 約21.4×16.2cm |
| 所蔵 | テート・ブリテン(ロンドン) |
| 依頼主 | ジョン・ヴァーリー(水彩画家・占星術師) |
一言でいうと
《蚤の幽霊》は、ブレイクが幻視のなかで実際に目にしたと語る奇怪な生き物の姿を、そのまま絵として定着させた作品です。虫の蚤とはまったく似ても似つかぬ、筋骨隆々とした異形の存在として描かれている点が、本作最大の驚きになっています。
制作背景 — なぜこの絵は生まれたのか
生涯にわたる幻視体験
ブレイクは生涯を通じて日常的に幻視を経験していたと伝えられています。幼いころ、大勢の天使が星のようにまばゆい翼を広げて木の枝に座っている姿を見たのが、その最初の体験だったといいます。こうした神秘的な体験は、彼の詩や絵画に一貫して流れる独自の神話世界の源泉になっていました。
ジョン・ヴァーリーとの「幻視の肖像」
本作は、水彩画家であり造園技師、そして占星術師でもあったジョン・ヴァーリーの依頼によって制作されました。ブレイクより30歳ほど若かったヴァーリーは、精霊や幽霊の存在を信じていながら、自らはそれらを一度も目撃したことがないという不満を抱いていました。そこでヴァーリーは、幻視の力を持つというブレイクに頼み、夜な夜な降霊術のような会を開き、彼の目の前に現れたという歴史上あるいは空想上の人物の霊を、その場でスケッチしてもらうという「幻視の肖像」シリーズを生み出していきます。エリノア王妃や獅子心王リチャード、預言者ムハンマドなど、さまざまな肖像がこの試みのなかで描かれました。
蚤の幽霊との対話
このシリーズのなかでもとりわけ有名なのが本作です。降霊会の最中、ブレイクの前に蚤の幽霊が現れて鉛筆で描くよう頼まれた際、その幽霊は突然話し始め、ギザギザの歯と舌のクローズアップにもっと焦点を当てて描くようブレイクに指示したと伝えられています。また、この生き物が手に持つ器のなかには、獲物から得た血が入っているのだと、幽霊自身が告白したとも言われています。
見どころ徹底解説

蚤らしからぬ異形の姿
画面に描かれているのは、鱗のような肌をまとい、筋肉質な身体を持つ、人と爬虫類が入り混じったような姿の生き物です。テート・ブリテンの展示解説によれば、この霊は昆虫の蚤とはまったく似ても似つかぬ姿でブレイクの想像の世界に現れたのだといいます。虫の蚤を思わせる要素は、足元に描かれた小さな蚤の姿だけであり、この対比が本作の不気味さを一層際立たせています。
手に持つ杯と棘
生き物の左手には、ドングリの殻で作られた小さな杯のようなものが握られています。これは前述の通り、獲物の血を入れる器だとされています。右手には植物の棘のようなものが握られており、武器のようにも見えるその形状が、この生き物の獰猛さを暗示しています。
星が瞬く舞台のような背景
背景には夜空に星が瞬き、両側にカーテンのような幕が垂れ下がる、まるで舞台の一場面のような構成になっています。このカーテンの演出によって、鑑賞者はブレイクが見たという幻視の世界を、まさに舞台の上で繰り広げられる出来事として覗き見ているかのような感覚を味わうことになります。
実際に見るには
本作はイギリス・ロンドンのテート・ブリテンに所蔵されています。同館では2019年から2020年にかけてブレイクの大規模な回顧展が開催されるなど、彼の再評価が進む契機にもなりました。原画は非常に小さいため、実際に間近で見るとその繊細な筆致と迫力のギャップに驚かされます。なお本作は、ロックバンド、アイアン・メイデンのボーカリスト、ブルース・ディッキンソンのソロアルバム『ザ・ケミカル・ウェディング』のジャケットにも使用されています。
よくある誤解
本作はしばしば「単なる奇怪な怪物画」として紹介されがちですが、実際にはブレイクが生涯を通じて経験し続けた幻視体験と、それを実際に目にしたいと願うヴァーリーとの交流のなかから生まれた、きわめて個人的な逸話に基づく作品です。虫の蚤という身近な生き物のタイトルを持ちながら、その姿がまったく似ていないという落差そのものが、本作の核心にある仕掛けであることを踏まえて鑑賞する必要があります。
FAQ
Q. 《蚤の幽霊》はどのような経緯で描かれましたか?
占星術師ジョン・ヴァーリーが開いた降霊術のような会のなかで、ブレイクの前に現れたという蚤の幽霊をその場でスケッチしたことがきっかけとされています。
Q. なぜ虫の蚤とはまったく違う姿をしているのですか?
ブレイクが幻視のなかで目にしたという霊が、昆虫の蚤とはまったく異なる筋骨隆々とした姿で現れたためと伝えられています。
Q. 手に持っている杯には何が入っているとされていますか?
獲物から得た血が入っているのだと、幽霊自身がブレイクに告白したとされています。
Q. 同じような作品は他にもありますか?
ジョン・ヴァーリーの依頼による「幻視の肖像」シリーズとして、エリノア王妃や獅子心王リチャードなど、複数の肖像画が残されています。
Q. どこでこの絵を見ることができますか?
イギリス・ロンドンのテート・ブリテンに所蔵されています。
まとめ
《蚤の幽霊》は、ブレイクが生涯を通じて経験し続けた幻視の力と、それを実際に見てみたいと願った友人ヴァーリーとの交流のなかから生まれた、きわめて個人的で神秘的な一枚です。虫の蚤という身近な題材が、これほどまでに異形の姿として立ち現れているという落差にこそ、ブレイクという幻視の画家の独創性が凝縮されています。
