《源牛若丸僧正坊ニ随武術ヲ覚図》(1851年)は、歌川国芳が描いた、大判の三枚続の錦絵で、少年時代の牛若丸(のちの源義経)が、京都の鞍馬山で、大天狗の僧正坊から、武術を学ぶ伝説を題材にしています。暗い杉木立の夜に、赤い衣の僧正坊が、画面の中央に、どっしりと座り、右上では、牛若丸が、大きく跳び上がり、鳥の姿をした天狗たちが、地面から、襲いかかります。三枚が、ひとつながりの画面として、組み立てられた、国芳らしい、武者絵の傑作です。
基本情報
作者は歌川国芳(1797〜1861)、制作年は、嘉永4年(1851)とされます。形式は、大判の錦絵(多色刷りの木版画)の三枚続です。国芳の落款は、各枚に、「一勇斎国芳画」と読み取れ、右上の題箋には、画題が記されています。題の表記は、資料により、「随武術」「隋武術」「ヲ覚ル図」「を覚図」などの違いがあります。
題材|牛若丸と僧正坊
牛若丸は、源義朝の九男として生まれ、幼くして、平治の乱(1159年)で、父を失い、鞍馬寺に預けられました。鞍馬山の奥の「僧正が谷」は、天狗の住処とされ、そこに住む大天狗が、僧正坊(鞍馬天狗)です。『義経記』には、「鞍馬の奥に僧正が谷といふ所あり」という記述があり、能の『鞍馬天狗』などを通じて、牛若丸が、天狗から、兵法を授けられるという伝説が、広まりました(立命館ARCの展覧会解説)。
立命館ARCの解説によると、近世になると、僧正坊が見守る中、部下の烏天狗が、牛若丸の稽古相手になるという図様が、定着しました。烏天狗は、嘴と、背中の翼を持ち、木の葉天狗とも呼ばれ、威力のない天狗として、義経に打ち負かされる姿で描かれ、大勢で、牛若丸に向かう構図が、増えたといいます。
見どころ|三枚の構成

中央の画面には、赤い衣と、青い模様の衣を着た、僧正坊が、藁の敷物の上で、あぐらをかいています。白く長い髪と、ひげを垂らし、頭には、小さな頭巾をつけ、両手を、膝の前で、静かに組んでいます。その後ろには、斧や杖を持った、烏天狗たちが、並んで、様子をうかがっています。僧正坊の右には、焚き火の炎が、高く上がり、その明かりが、杉の幹と、人物たちを、浮かび上がらせます。
右の画面では、牛若丸が、画面の右上に、高く跳躍しています。赤い小袖に、青緑の模様の衣を重ね、黒髪を高く結った姿で、足を縮め、体をひねって、天狗たちの上を、飛び越えるように描かれています。その下では、鋭い嘴と、翼を持つ烏天狗が、棒や、槍のような得物を持って、牛若丸を、迎え撃とうとして、身をかがめ、駆け寄っています。茶、白、青の羽が、模様のように、描き分けられています。
左の画面では、青い波模様の着物を着て、長い刀を持った人物が、滝のそばに座り、上を、見上げています。この人物が、誰を指すのかは、確認できていません。滝の水は、藍色の濃淡で、描かれ、画面の端に、動きを与えています。
全体は、暗い青緑の夜景のなかに、僧正坊の赤い衣と、焚き火の炎が、鮮やかに映え、国芳が得意とした、三枚続の画面全体を使った、大胆な構図になっています。
制作年と所蔵
制作年は、嘉永4年(1851)とする資料が、多くあります(日本語版ウィキペディア、横浜美術館の展覧会リストなど)。一方、古美術店(山田書店)は、天保〜弘化期(1843〜47)、オークション会社は、1851〜53年としています。
この図は、大英博物館に、中央の画面が収蔵され、倉敷の「UKIYO-E KURASHIKI/国芳館」にも、収蔵されています。
まとめ
《源牛若丸僧正坊ニ随武術ヲ覚図》は、伝説の師弟の稽古を、夜の杉林と、焚き火の炎の中に、劇的に描いた作品です。僧正坊の大きさと、牛若丸の跳躍、烏天狗たちの動きが、三枚の画面に、均衡と緊張を与えています。国芳の想像力と、武者絵の技が、よく表れた一枚です。
