《ヴェトゥイユの画家の庭》(1881年)は、クロード・モネが、セーヌ川沿いの村ヴェトゥイユで借りていた家の庭を、描いた作品です。画面の中央を、まっすぐ上へ伸びる小道の両側に、背の高いひまわりが、壁のように茂り、その間に、白い服の子どもたちと、女性の姿が見えます。強い青い空と、ひまわりの黄色の対比が、夏の光を伝えます。ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アート(NGA)が所蔵しています。
基本情報
作者はクロード・モネ(1840〜1926)、制作年は1881年です。技法はキャンバスに描いた油彩で、サイズは、NGAの記録で、縦151.5×横121cm(額縁を含めると縦177.8×横147.3cm)です。収蔵番号は1970.17.45で、「エイルサ・メロン・ブルース・コレクション」として、1970年に、遺贈されました。画面の右下に、「Claude Monet 80」と、署名と年号がありますが、「80」は、あとから、誤って書き加えられたものです(下記)。
制作の背景|ヴェトゥイユでの暮らし
モネは、1878年に、パリ近郊を離れ、生活費の安いヴェトゥイユに移り住みました。支援者だったエルネスト・オシュデが、事業に失敗して、失踪したため、その妻アリス・オシュデと、7人の子どもたちも、モネ一家と、同じ家に暮らしました。1879年9月には、モネの最初の妻カミーユが、この地で亡くなりました。その後、アリスが、家事と、両家の子どもたちの世話を担いました。1881年の末には、家賃を払えなくなり、モネは、ヴェトゥイユを離れました(個人ブログ『Making a Mark』による)。
NGAによれば、モネは、住んだ土地では、必ず庭をつくりました。この家でも、持ち主と取り決めを交わして、セーヌ川へ続く、テラスを、庭に整えました。
四つの版
NGAの2018年の展示解説によると、モネは、1881年の夏に、ひまわりの庭を描いた、互いに近い4点のキャンバスを、描き始めました。そのうち、ノートン・サイモン美術館(カリフォルニア)の版(縦100.3×横81.3cm)は、NGAの版と、色調や構図が最も近く、雲や、手前の影の位置が、共通しています。ノートン・サイモンの版が、NGAの大きな版の、下絵だったという説は、長くありましたが、近年の調査は、その説に、疑問を示しています。
また、NGAの版は、モネが、のちに、手前の部分を描き直しており、そのときに、誤って、「80」の年号を書き加えたと、NGAは述べています。この2点は、1882年に離ればなれになり、2018年に、NGAで、初めて、並べて展示されました。
見どころ|小道とひまわり

画面は、縦長で、手前は、広い、砂色の小道で、奥へ向かって、細くなり、家の階段へ続きます。道の両側には、黄色と、焦げた橙色の、大きなひまわりが、重なり合って、高く立ち、緑の葉と、赤い花が、混ざります。手前の左右には、青と白の、大きな鉢が、置かれ、細い花(グラジオラスなど)が、すっと伸びています。NGAは、この大きな鉢が、モネ自身のものであり、引っ越すたびに、持ち歩いて、別の庭でも、使ったと説明しています。
小道の中ほどには、白い服の幼い子どもが、こちらを向いて、立っています。その後ろの階段には、もう一人の子どもと、青と白の服を着た女性が、見えます。NGAは、女性は、コーンフラワー(矢車菊)のような青と白の服で、二人の子どもは、素足で、白い服に、黄色い帽子をかぶっていると述べています。
画面の上のほうには、赤茶色の屋根と、煙突が、暗い青空と、白い雲を背に、浮かんでいます。ブログ『Making a Mark』は、この版が、「これまでに描かれた、最も平らな風景の一つ」だと評し、階段が、一段ずつ区別できず、崖のようにも見えると述べています。
描かれた人物
人物の同定は、資料によって異なります。ウィキメディア・コモンズに引用されたNGAの解説では、子どもたちが、モネの次男ミシェルと、ジャン=ピエール・オシュデとされます。日本のサイト(salvastyle)は、手前の子どもが、当時4歳のジャン=ピエール、中ほどにいるのが、ミシェル(3歳)と、アリス・オシュデだと述べています。一方、『Making a Mark』は、手前の子どもが、ミシェルだとしています。
まとめ
《ヴェトゥイユの画家の庭》は、モネが、生活の困難のなかで、庭を「戸外のアトリエ」として、描いた、明るい作品です。ひまわりの黄色と、深い青空の対比は、後年の、ジヴェルニーの庭の絵にも、つながっていきます。
