テオドラ・クラルプ《ラスプーチンの肖像》とは|白いシャツ姿で微笑む、デンマーク人画家が描いたラスプーチン

《ラスプーチンの肖像》(1916年)は、デンマーク出身の肖像画家テオドラ・クラルプが、ロシアの宗教家グリゴリー・ラスプーチンを描いた油彩画です。白いゆったりとしたシャツを着たラスプーチンが、椅子に腰かけ、手を膝の上で重ねて、こちらへ顔を向けています。胸まで伸びた長い髭と、中央で分けられた長い髪、そして、わずかに笑みを浮かべた表情が、静かな存在感を放っています。写真に見えるほど、細かい描写ですが、実際は、キャンバスに描かれた肖像画です。

基本情報

作者はテオドラ・クラルプ(アンナ・テオドラ・フェルディナンダ・アレクサンドラ・クラルプ、1862〜1941)、制作年は1916年とされ、画面の左上には、「Th. Krarup 1916」という署名と年号が、読み取れます。技法はキャンバスに描いた油彩で、画像データベース(album-online、Alamyなど)は、個人蔵としています。サイズは、確認できていません。描かれているのは、グリゴリー・ラスプーチン(1869〜1916)です。

画家について

クラルプは、デンマークのフュン島の出身で、王立デンマーク美術アカデミーで、ヴィゴ・ヨハンセンに絵画を、アウグスト・サービュに彫刻を学びました。その後、ヘルシンキを経て、ペテルブルクへ移り、デンマーク生まれの皇太后マリア・フョードロヴナから、亡き夫、アレクサンドル3世の肖像を依頼されたと、英語版ウィキペディアは述べています。

クラルプは、ペテルブルクで、ラスプーチンと親しくなり、その肖像を、何度も描きました。のちに、回想録『ツァーリのロシアとソ連の42年』(デンマーク語の原題は『42 aar i Czarriget og Sovjet』、死後の1941年に出版)に、ラスプーチンとの交流を記しています。ロシア美術のオークション会社イズバ・アーツの解説は、クラルプが、ラスプーチンの肖像を、12点描いたと、回想録に書いていると紹介しています。ラスプーチンの死のとき、手元に、まだ何点も残っており、モスクワの美術館の館長が1点を、ペテルブルクの領事が3点を購入したとも、記されています。

ほかのラスプーチンの肖像

クラルプは、ラスプーチンを、さまざまな姿で描いたようです。イズバ・アーツのオークションには、1914年の署名がある、農民(ムジーク)の姿のラスプーチンの肖像(縦53×横40.5cm)と、1915年の署名がある、聖者としてのラスプーチンの肖像(縦58×横44.5cm)が出品されました。デンマークの資料にも、1915年の肖像が確認されます。

見どころ|白いシャツの男

画面の中央に、ラスプーチンが、体を右へ向けて、座っています。顔は、観る者のほうへ向き、深い茶色の目は、やわらかく、細められています。額から、中央で分けられた、茶色の長い髪が肩へ垂れ、頬から胸へ、赤みを帯びた茶色の髭が、波打つように、長く伸びています。顔には、深いしわが刻まれ、口元には、ほのかに、笑みが浮かんでいます。

着ているのは、ゆったりとした、白い立襟の麻のようなシャツで、皺の寄った布の陰が、淡い灰色や青みを帯びた色で、細かく描き込まれています。膝の上には、両手が、無造作に重ねられています。背景は、灰色がかった茶色の平らな面で、人物の白と、髭の赤茶色を引き立てます。

世間に流布した、ラスプーチンの肖像といえば、鋭い目で、見る者を射抜く、写真のイメージが、強く残っています。この絵のラスプーチンは、それとは違い、穏やかで、親しげな表情をしています。クラルプが、彼と親しく接していたことが、画面の空気に、反映しているようにも見えます

時代のなかで

1916年は、ラスプーチンが殺害された年です。第一次世界大戦のなか、ラスプーチンへの批判は、国全体に広がっていました。そのなかで、外国人の画家が、彼の素顔の一面を、静かに描き残したことになります。

まとめ

《ラスプーチンの肖像》は、怪僧、淫蕩の僧といった、伝説に覆われたラスプーチンを、穏やかな笑みを浮かべた、一人の農民の顔として、とらえた作品です。それが、画家の目に映った、ほんとうの姿なのか、あるいは、一部にすぎないのかは、分かりません。ただ、数々の風刺画や、噂とは別の、もう一つのラスプーチン像が、ここに残されていることは、確かです。

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