ラスプーチンとは|シベリアの農民から帝政ロシア宮廷の「怪僧」になった男、その実像と伝説

グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは、シベリアの農村に生まれ、放浪の巡礼者として各地を歩いたのち、ロシア皇帝ニコライ2世の宮廷に入り込んだ人物です。皇太子アレクセイの血友病に苦しむ皇后アレクサンドラが、彼の祈りに救いを見いだしたことで、帝政末期の政治にまで影響を及ぼしたとされます。1916年12月に、貴族たちの手で殺害され、その3か月ほど後に、ロマノフ朝は崩壊しました。「怪僧」「淫蕩の僧」といった呼び名とともに語られてきましたが、その生涯の多くは、同時代の噂と、のちに作られた伝説に覆われています。この記事では、確認できる史実と、後世に広まった伝説とを分けながら、ラスプーチンの生涯をたどります。

基本情報

名前は、グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン(ロシア語でГригорий Ефимович Распутин)です。出生記録によると、1869年1月21日(ロシア旧暦では1月9日)に、シベリアのトボリスク県ポクロフスコエ村(現在のチュメニ州)で生まれ、翌日に洗礼を受けたとされます。ただし、生年には諸説があり、1864〜65年、1872年とする資料も、日本の百科事典類には見られます。没年は1916年で、新暦の12月30日(旧暦12月17日)の未明に、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で殺害されました。享年は47と数えられます。

日本では、「修道士」「僧」と紹介されることが多いのですが、ラスプーチンは、ロシア正教会の正式な聖職には就いていません。放浪の巡礼者を意味する「ストランニク」、あるいは霊的な導き手としての「スターレツ(長老)」と呼ばれた、在野の宗教者でした。

なお、この記事では、日付を、ロシア旧暦(ユリウス暦)ではなく、新暦(グレゴリオ暦)で書き、必要な箇所に旧暦を添えます。日本語の資料には、「12月17日」のように、旧暦の日付で書かれたものが多いため、注意が必要です。

生い立ち|シベリアの小さな村から

ラスプーチンが生まれたポクロフスコエ村は、チュメニの近くを流れるトゥーラ川沿いの、小さな農村でした。父エフィムは、農民であり、教会の長老でもあり、トボリスクとチュメニのあいだで、人や荷物を運ぶ御者の仕事もしていました。母アンナは、ラスプーチンの母としてのほか、資料はあまり残っていません。夫妻は、数人の子をもうけましたが、多くが、幼いうちに亡くなったとされます。

ラスプーチンの若いころについて、歴史家のダグラス・スミスは、「ほとんど何も分かっていない、暗い穴」と述べています。ラスプーチンが、有名になったのちに、馬泥棒の罪で村を追われた、などの話が語られましたが、地元の記録には、そうした罪で訴えられた証拠はありません。確かなのは、ほかの多くのシベリアの農民と同じように、読み書きを教わらず、成人になるまで、文字が読めなかったことです。

1886年に、ラスプーチンは、アバラクという村で、農民の娘プラスコヴィヤ・ドゥブロヴィナと知り合い、翌1887年2月に結婚しました。夫妻は、7人の子をもうけますが、成人まで生き延びたのは、ドミトリー(1895年生まれ)、マリア(1898年生まれ)、ヴァルヴァーラ(1900年生まれ)の3人でした。プラスコヴィヤは、ラスプーチンが、都で名を成したのちも、ポクロフスコエに残り、彼に尽くしたと伝えられます。

巡礼と回心

1897年、28歳のラスプーチンは、妻子を村に残して、巡礼の旅へ出ました。理由ははっきりせず、馬泥棒の罪を逃れるためだとする説、聖母マリアや、聖シメオンの幻を見たとする説、若い神学生の影響だとする説など、さまざまです。スミスは、結婚して10年、幼い息子と、お腹の子を抱えた男が、すべてを捨てて旅に出た背景には、何らかの、感情的、霊的な危機があったはずだと考えています。

この年に訪れた、ヴェルホトゥーリエの聖ニコラス修道院で、ラスプーチンは、マカリーという長老に出会い、深い感銘を受けました。数か月をそこで過ごし、読み書きを覚えたのも、ここだったかもしれません。ただし、後年のラスプーチンは、修道士のなかに、同性愛に走る者がいたと主張し、修道院生活を、強制的すぎると批判しています。

ポクロフスコエに戻ったラスプーチンは、人が変わったようになっていました。菜食をはじめ、酒を断ち、それまでとは比べものにならないほど、熱心に祈り、歌うようになったと伝えられます。その後の数年間、ラスプーチンは、数か月、あるいは数年のあいだ、各地の聖地を歩く、放浪の巡礼者として過ごしました。1900年には、ギリシャのアトス山まで足を伸ばしたかもしれない、とも言われます。

1900年代の初めには、村の家族や農民から成る、小さな信奉者の輪ができ、日曜や祝日に、ラスプーチンの父の貯蔵庫に作った、簡素な礼拝所で、祈りの集まりが開かれました。この集まりは、村の司祭たちから、疑いと敵意を向けられ、信者の女性が、ラスプーチンの体を儀式的に洗うといった、噂も流れました。ラスプーチンが、恍惚の儀式で知られた分派「鞭身派(フリストゥイ)」に属していたという疑いも、このころから、くり返し語られます。しかし、歴史家のフュルマンは、「くり返された調査でも、ラスプーチンが、この分派の成員だったことは、確認されなかった」と述べています。

ペテルブルクへ|宮廷への道

1904年か、1905年のころ、ラスプーチンは、カザンの町に現れ、霊的な悩みを相談できる賢いスターレツとして、評判を得ました。地元の聖職者たちの好意を受け、推薦状を携えて、ペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の神学校へ向かいます。そこで、神学校の副校長フェオファン(のちに皇室の聴罪司祭)に紹介され、その家に泊まるなど、親しく世話を受けました。フェオファンの縁で、ラスプーチンは、貴族たちが宗教談義のために集まる、さまざまなサロンに出入りするようになります。

当時のペテルブルクの上流社会では、心霊術や神智学などへの関心が高まり、貴族たちは、オカルトと超自然の世界に強い好奇心を寄せていました。「退屈し、冷笑的で、新しい経験を求めていた」彼らにとって、素朴で、強い目を持つ、ロシア生まれの農民の聖者は、新鮮な存在でした。以前、ペテルブルクで人気を博した、フランス人の「聖者」たちとは違い、ラスプーチンは、生粋のロシア人であったことも、人気を後押ししたかもしれません。

ラスプーチンは、「黒い王女たち」と呼ばれた、モンテネグロ出身のミリツァとアナスタシアの姉妹とも親しくなりました。二人は、ニコライ2世の従兄弟と結婚しており、ラスプーチンを、皇帝一家に紹介する上で、重要な役割を果たしました。

ラスプーチンが、ニコライ2世に初めて会ったのは、1905年11月1日(新暦)、ペテルゴフ宮殿でのことです。皇帝は、日記に、皇后アレクサンドラとともに、「トボリスク県出身のグリゴリーという、神の人と知り合った」という趣旨のことを記しています。この日の出会いのあと、ラスプーチンは、いったん、ポクロフスコエに戻り、ペテルブルクへ帰ったのは、1906年7月でした。同年7月18日、さらに10月に、皇帝夫妻と会い、10月に、子どもたちとも対面しています。

皇太子アレクセイと血友病

ニコライ2世と皇后アレクサンドラは、4人の皇女のあとに、待望の男の子アレクセイを得ましたが、アレクセイは、血が止まりにくい病気、血友病を抱えていました。小さな打撲でも、体の内部で出血が続き、激しい痛みを伴う病気です。当時、有効な治療法はなく、皇后は、わが子を救えない医師たちに、深く失望していました。

ラスプーチンが、いつ、アレクセイの病気を知り、いつから、病気の治療に関わったかは、はっきりしません。歴史家のフュルマンは、1906年10月ごろ、初めて、皇太子の健康のために祈るよう頼まれたのではないかと推測しています。確かなのは、1907年春に、アレクセイが体内で出血を起こしたとき、皇后が、ラスプーチンを呼んで祈らせ、翌朝、皇太子が回復したことです。この出来事のあと、皇后の友人アンナ・ヴィルボヴァが、ラスプーチンの奇跡の力を信じ、彼の最も有力な擁護者の一人になりました。

特に有名なのが、1912年秋の、スパワ(当時ロシア領ポーランド)での出来事です。皇室の狩猟地で、馬車が激しく揺れたあと、アレクセイは、太ももから鼠径部にかけて出血し、大きな血腫ができました。激痛と高熱でうわごとを言い、死にかけているように見えたため、皇后は、ヴィルボヴァに頼んで、シベリアにいたラスプーチンに、祈りを求める電報を打たせました。ラスプーチンは、すぐに返信を送ります。「神は、あなたの涙を見、あなたの祈りを聞かれました。悲しまないでください。小さな者は死にません。医者たちに、あまり煩わせないようにしなさい」(趣旨)。

翌朝になっても、アレクセイの容態は変わらなかったものの、皇后は、この電報に勇気づけられ、希望を取り戻しました。出血は、その翌日に止まりました。治療にあたった医師S・P・フョードロフは、「医学的には、まったく説明のつかない回復だった」と認めています。

なぜ回復したのかは、今も分かりません。歴史家ロバート・K・マッシーは、医師たちに触れさせるなという助言が、皇太子を安静にさせ、回復を助けたのではないか、あるいは、電報が、母親を落ち着かせ、皇太子の精神的な緊張を和らげたのではないかと推測しています。ほかの機会には、催眠によって、出血を止めたのではないかと考える研究者もいます。また、皇太子の家庭教師ピエール・ジリアールらは、ラスプーチンが、当時、鎮痛剤として広く使われていたアスピリンの投与を、やめさせたのではないかと推測しています。アスピリンに血を固まりにくくする作用があると知られたのは、1950年代以降です。ただし、これらは、いずれも、推測にとどまります。

皇后は、ラスプーチンが、奇跡を行ったと信じ、息子の命を救うために、彼が欠かせない存在だと確信しました。

宮廷での地位と、広がる反発

ラスプーチンは、「燈明番」として、宮殿の聖像の前の燈明を絶やさない役目を与えられ、宮殿に自由に出入りできる立場を得ました。1906年12月には、皇帝に、姓を「ラスプーチン・ノーヴィ(新しい、ラスプーチン)」に改めたいと願い出て、許されています。その手続きが、速やかに進んだことは、この早い時期から、皇帝の好意を得ていた証拠とも言われます。

ラスプーチンは、同時に、批判の的にもなりました。1907年には、ポクロフスコエの聖職者たちが、ラスプーチンを異端者として告発し、トボリスクの主教が、「鞭身派のような偽の教えを広めている」疑いで、調査を始めています。ペテルブルクでも、首相のストルイピンや、皇帝の秘密警察オフラーナが、ラスプーチンの活動を警戒しました。ストルイピンは、調査を命じ、皇帝に直接訴えましたが、ラスプーチンの影響力を抑えることも、都から追放することもできませんでした。

宮廷の外では、酒宴や、女性たちとの関係、不品行をめぐる噂が、広まりました。ラスプーチンは、肉体に触れることが人を清めるといった考えを説いたとも伝えられます。1909年には、初期の支持者の一人が、ラスプーチンを、暴行で訴えました。これを聞いたフェオファンは、ラスプーチンが、君主制にとって危険な存在だと確信するようになります。

宮廷内部でも、波紋が広がりました。1910年には、皇女たちの養育係ソフィヤ・チュッチェワが、ラスプーチンが、就寝前の皇女たちの部屋に出入りしていることに驚き、抗議しました。皇帝は、ラスプーチンに、子ども部屋への訪問をやめるよう頼みましたが、皇后は、チュッチェワを解雇しました。皇室の一部の人々は、この話に衝撃を受けましたが、ラスプーチンと子どもたちの関係は、さまざまな証言を見る限り、まったく無垢なものだった、と英語版ウィキペディアは述べています。

それでも、社交界では、ラスプーチンが、皇后だけでなく、4人の皇女たちを誘惑したという噂が囁かれました。ラスプーチンが公開した、皇后や皇女たちからの熱烈な手紙が出回り、皇后や皇女との関係を描いた、卑猥な風刺画まで流布して、噂に拍車をかけました。皇帝は、ラスプーチンに、しばらく都を離れるよう命じ、ラスプーチンは、パレスチナへの巡礼に出かけました。しかし、皇后は、これに不満で、ラスプーチンとの関係は、のちに、元通りになります。

1911年12月には、かつてラスプーチンを支持していた、司祭イリオドルが、ラスプーチンの不品行と、思い上がりを非難して、決別しました。イリオドルらによる、ラスプーチンと皇室を引き離そうとする試みは、失敗に終わり、イリオドルは、ペテルブルクから追放され、のちに聖職を剥奪されました。

1914年|戦争への反対と暗殺未遂

1914年7月12日(旧暦6月29日)、ポクロフスコエ村の自宅の前で、33歳の農民の女、キオーニャ・グセヴァが、ラスプーチンの腹を刺しました。ラスプーチンは、皇后から、ロシアが戦争の準備をしていると聞き、皇帝に戦争を避けるよう訴える電報を打つために、家を出たところでした。重傷を負い、一時は、命が危ぶまれましたが、手術を受け、チュメニの病院で療養して、回復しました。

グセヴァは、イリオドルの信奉者で、新聞でラスプーチンを知り、「偽預言者、反キリスト」だと信じて、単独で犯行に及んだと主張しました。しかし、警察も、ラスプーチン自身も、イリオドルが、事件を扇動したのではないかと疑いました。イリオドルは、事情聴取を受ける前に、国外へ逃れ、グセヴァは、心神喪失で、責任を問われませんでした。

1915〜16年|皇帝の出征と「大臣の入れ替わり」

第一次世界大戦が始まると、ロシア軍は、東部戦線で、敗北を重ねました。1915年8月(旧暦)、ニコライ2世は、みずから軍の最高司令官に就任して、ペテルブルクを離れ、前線の司令部へ移りました。留守の内政は、皇后アレクサンドラに任され、皇后は、ラスプーチンの助言に、強く頼るようになります。

このころから、大臣の人事が、めまぐるしく入れ替わりました。批判者は、これを「大臣の入れ替わり(ministerial leapfrog)」と呼びました。アルファヒストリーによれば、1915年9月から、1917年2月までのあいだに、ロシアでは、首相が4人、戦争大臣が3人、内務大臣が5人入れ替わり、その多くが、ラスプーチンの意向を受けた、皇后を通じた働きかけによると、見られました。別の研究を引くリポートは、1915年6月から11月のあいだだけで、8人の大臣が交代したと述べています。

ただし、ラスプーチンが、実際に、どこまで政策を動かしたのかについては、慎重な見方もあります。エンサイクロペディア・ドットコムの項目は、ラスプーチンが政策を直接決めた証拠はなく、官僚の人事に影響を及ぼし、その人々が「ラスプーチン一派」を形づくった、というのが実情だとしています。皇帝も、ラスプーチンの助言を、いつも受け入れたわけではなく、1916年には、皇后に、「我らの友の人物評は、ときに、とても奇妙だ」と書き送っています。ラスプーチンの力は、噂のなかで、誇張されていた面があった、というのです。

戦争の敗色が濃くなるなか、国民の不満は、皇后と、ラスプーチンに集まりました。皇后が、ドイツ生まれの王女だったことから、「宮廷に、ドイツの利益のために働く勢力がいる」といった噂も広まりましたが、これは、根拠のないものでした。

1916年11月、右翼の国会議員ウラジーミル・プリシケヴィチは、国会で、大臣たちが、「ラスプーチンと、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ――ロシアの邪悪な天才――に、糸を握られた、操り人形にされている」と演説しました。この演説が、暗殺の決意を、後押しする一因になったとも言われます。この時期には、首相のシュトゥルメルが解任され、ラスプーチンの「庇護を受けた」とされる、内相プロトポポフの罷免を求める声も強まっていました。

ラスプーチンがロシア皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラを操り人形のように扱う様子を描いた風刺画

暗殺|1916年12月

こうしたなか、プリシケヴィチ、ドミトリー・パヴロヴィチ大公、フェリクス・ユスポフ公爵らの貴族の一団は、ラスプーチンの影響が、帝国を危うくしていると考え、暗殺を計画しました。実行の場所は、ユスポフ家の、モイカ宮殿でした。

「グリシカ・ラスプーチンの処刑」
悪名高いロシアの怪僧グレゴリー・ラスプーチンの殺害を描いた風刺画

ラスプーチンは、1916年12月30日(旧暦12月17日)の未明に、ユスポフの家で殺害されました。死因は、3発の銃弾で、そのうちの1発は、額への至近距離の射撃でした。「それ以外のことについては、ほとんど何も確かなことは分からない」と、英語版ウィキペディアは述べ、スミスも、「ユスポフの家で、実際に何が起きたかは、決して分からないだろう」と記しています。

最もよく知られた話は、ユスポフ自身が、のちに回想録で語ったものです。それによれば、ユスポフは、ラスプーチンを、真夜中過ぎに、宮殿の地下室に招き、青酸カリを入れた茶菓子と、ワインを勧めました。ラスプーチンは、それを食べ、飲んでも、まったく平気な様子でした。ユスポフは、午前2時半ごろ、2階の仲間のもとへ上がり、ピストルを手に戻って、ラスプーチンの胸を撃ちました。仲間たちは、ラスプーチンが帰宅したように見せかけるため、スホーチンに、ラスプーチンの外套と帽子を着せて、彼の家へ向かいました。ユスポフが、地下室に戻ると、死んだはずのラスプーチンが、突然、起き上がって襲いかかりました。ユスポフは、振りほどいて逃げましたが、ラスプーチンは、中庭まで追いかけ、そこで、プリシケヴィチに撃たれて、雪の上に倒れました。遺体は、布に包まれ、ペトロフスキー橋から、小ネフカ川に投げ込まれました。

しかし、この話は、現在では、疑問視されています。トロント大学のキャロリン・ハリスは、実際の状況は、ユスポフの話ほど劇的ではなかったと述べています。ラスプーチンの娘は、父が甘い食べ物を口にしなかったので、毒入りのケーキを食べるはずがないと記しています。そして、検死の記録には、毒殺も、溺死の形跡もなく、頭への至近距離の1発による死亡が、記されています。

捜査は、翌朝から始まりました。橋の欄干の血痕と、氷の上のブーツが見つかり、遺体は、1917年1月1日(旧暦で19日)、橋から約200メートル下流の、氷の下で見つかりました。市の主任検死医ドミトリー・コソロトフが、検死を行いました。コソロトフの報告書は失われましたが、のちの証言では、遺体には、3発の銃弾、左わき腹の切り傷、その他の傷があり、その多くは、死後についたものだと考えていました。体内には、変形した弾が1発あり、毒物の形跡は、ありませんでした。肺に水はなく、生きたまま川に投げ込まれたという話は、誤りだったと、スミスとフュルマンは述べています。のちに、陰部を切断されたという話が語られましたが、コソロトフは、無傷だったと証言しています。

実行犯の一人として、イギリスの情報部員がいたという説も、一部で語られています。しかし、確かな証拠は、確認できていません。

葬儀と、遺体のその後

ラスプーチンは、1917年1月2日(旧暦12月21日)、ヴィルボヴァが、ツァールスコエ・セローに建てていた、小さな教会に、葬られました。葬儀には、皇帝一家と、ごく少数の側近だけが参列し、ラスプーチンの妻、愛人、子どもたちは、招かれませんでした。棺には、皇后と皇女たちが、裏に署名した聖像が、納められました。皇帝一家は、墓の上に、教会を建てることを計画していました。

しかし、その計画は、実現しませんでした。1917年3月、ニコライ2世が退位した直後に、臨時政府のケレンスキーの命令で、兵士たちが、遺体を掘り起こして、焼きました。墓が、旧体制の支持者の、拠りどころになることを避けるためでした。ロマノフ朝は、ラスプーチンの死から、わずか数か月で、終わりを迎えたことになります。

伝説と実像

ラスプーチンの生涯は、噂と作り話に、深く覆われています。研究者たちは、その多くを、慎重に区別しようとしてきました。

「鞭身派の信者だった」という話は、くり返された調査でも、確認されませんでした。「馬泥棒で村を追われた」という話にも、記録上の裏づけはありません。「毒を飲んでも死ななかった」「川に投げ込まれたときには、まだ生きていた」という話は、検死の記録と食い違います。「ラスプーチンが、皇后と皇女たちと関係を持った」という噂は、当時の社交界で盛んに語られましたが、歴史家たちは、確かな証拠のない、噂として扱っています。「グランドダッチェス・タチアナが、暗殺の場に居合わせた」という話も、確かな根拠のない主張です。ラスプーチンが、死の3か月以内に、ロマノフ朝が崩壊すると予言した、という話も、一部で語られていますが、確かな資料では確認できていません。

一方で、ラスプーチンが、酒に溺れ、女性関係や、金銭の受け取りなど、不品行があった点は、複数の研究者が、認めています。ラスプーチンの周りに、賄賂を送って、便宜を図ってもらおうとする人々が集まったこと、ラスプーチンが、自分の批判者の更迭に、力を貸したことも、指摘されています。

歴史家は、しばしば、ラスプーチンの、醜聞と、不吉な評判が、ツァーリ政府の威信を傷つけ、ロマノフ朝の崩壊を早めた、と指摘します。ラスプーチン自身が、帝国を動かしたというよりも、その存在が、皇帝夫妻と、体制への信頼を、損なう象徴になった、という見方です。

ラスプーチンの娘マリアは、ロシア革命後、フランスを経て、アメリカに渡り、ダンサーや、サーカスの猛獣使いとして働きました。彼女は、父についての回想録を、3冊書いています。近年は、ロシア正教会内部に、ラスプーチンの列聖を求める動きもあります。

大衆文化のなかのラスプーチン

ラスプーチンは、のちの映画や音楽にも、くり返し登場します。1932年の映画『ラスプーチンと皇后』、1966年のハマー・フィルムの怪奇映画『怪僧ラスプーチン』、ソ連のエレム・クリモフ監督の『アガニー』(1981年公開)、アニメ映画『アナスタシア』(1997年)などです。日本では、ドイツのボニーMの1978年のヒット曲「ラ・ラ・ラスプーチン」で、広く知られています。

『怪僧ラスプーチン』

まとめ

ラスプーチンの生涯は、シベリアの文盲の農民が、帝国の中枢にまで達し、貴族の手で殺されるという、劇的な物語です。その背後には、わが子の命を案じる母親としての皇后の、切実な思いがありました。彼を支えたのも、憎んだのも、戦争と社会不安のなかで、拠りどころを求めていた、さまざまな立場の人々でした。伝説の霧を取り払うと、そこに浮かび上がるのは、一人の怪物というより、危機の時代の、ロシアそのものの姿であるように思われます。

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