マンチェスター市立美術館に、開いたドアの向こうに広がる薄暗い寝室を描いた小さな油彩画がある。《切り裂きジャックの寝室(英:Jack the Ripper’s Bedroom)》と題されたこの作品は、ドイツ生まれのイギリスの画家ウォルター・シッカートが1906年から1907年にかけて手がけたものだ。タイトルにある「切り裂きジャック」とは、1888年にロンドンのイーストエンドを恐怖に陥れた、いまだ正体不明の連続殺人犯を指している。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ウォルター・シッカート(1860〜1942) |
| 制作年 | 1906〜1907年頃 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 50.8×40.7cm |
| 所蔵 | マンチェスター市立美術館 |
大家から聞かされた、ある噂話
シッカートは1905年、ロンドンのカムデン・タウンにあるモーニントン・クレセント6番地の部屋を借りて暮らし始めた。当時の大家ルイーザ・ジョーンズは、1888年にこの部屋を借りていた以前の住人が、切り裂きジャックだったのではないかとシッカートに語ったと伝えられている。彼女によれば、その住人は殺人事件の起きた夜に外出し、事件がやんだ頃にこの部屋を去っていったのだという。大家はその住人の名前までシッカートに伝え、彼はそれを1冊の本の見返しに書き留めたが、この本は後に友人アルバート・ラザーソンに貸し出されたまま行方が分からなくなっている。
シッカート自身、切り裂きジャックという存在に強い関心を寄せていたことは、当時の友人たちの証言からもうかがえる。彼は冗談交じりに、自らその犯人を名乗って見知らぬ女性に話しかけることもあったという。そして1907年9月、シッカートがまだこの部屋に暮らしていた最中、カムデン・タウンで女性エミリー・ディムロックが殺害されるという事件が起きた。この「カムデン・タウン殺人事件」は、彼の関心をいっそう強めることになり、この事件を主題とした関連作品もいくつか手がけている。
見どころ

あえて描き込まれない不明瞭な家具
画面には、化粧台と思われる家具や椅子が置かれているが、それらの輪郭はあえて曖昧に処理されている。この判読しづらい描写そのものが、部屋に潜む何かを見る者の想像に委ねる仕掛けになっている。
窓辺に浮かび上がる人影のような暗がり
奥の窓の手前には、家具の暗い配置がまるで人の姿であるかのような影を作り出している。これは意図的な曖昧さによる演出で、実際に人物が描かれているのかどうかは判然としないまま残されている。
ブラインド越しに差し込む桃色の光
窓の水平なブラインドの隙間からは、桃色を帯びた光が漏れ込んでいる。この生々しい色合いが、暗闇に沈む部屋全体に、どこか淫靡で不穏な空気を添えている。
ホイッスラー譲りの色彩の扱い
黒に近い暗色を基調としながら、深紅から桃色までの赤の諧調を織り交ぜるこの色彩感覚には、シッカートがかつて師事したジェームズ・マクニール・ホイッスラーからの影響が指摘されている。
長らく忘れられていた1枚
本作は1980年まで、シッカートのかつてのモデルであった人物の個人蔵として、美術史家のあいだでもほとんど知られていなかった。この絵をめぐっては、シッカート自身が切り裂きジャックだったのではないかという説も一部でささやかれてきたが、多くの伝記研究者は、事件当時シッカートがイギリスを離れていた可能性を指摘しており、この説は主流の歴史研究では否定的に扱われている。なお、この一連の出来事は、後にマリー・ベロック・ロウンズの小説『下宿人』、さらにはアルフレッド・ヒッチコックによる映画化にも影響を与えたとされている。
実際に見るには
本作はマンチェスター市立美術館の常設コレクションで見ることができる。シッカートが手がけたカムデン・タウン殺人事件に関連する他の作品群とあわせて見ることで、彼がこの陰惨な事件にどれほど執着し続けていたかがうかがえる。
FAQ
Q. 《切り裂きジャックの寝室》はどこで見られますか?
マンチェスター市立美術館に所蔵されている。
Q. なぜこの部屋が「切り裂きジャックの寝室」と呼ばれているのですか?
シッカートが借りていた部屋の大家が、以前の住人が犯人だったのではないかと語ったことに由来する。
Q. シッカート自身が犯人だったという説は本当ですか?
一部で議論されてきたが、多くの伝記研究者からは否定的に見られている、あくまで周辺的な説である。
Q. カムデン・タウン殺人事件とはどんな関係がありますか?
シッカートがこの部屋に住んでいた1907年、近隣で女性が殺害される事件が起き、これが彼の関心をさらに強めるきっかけになったとされている。
Q. シッカートはどんな画家でしたか?
ホイッスラーに師事し、カムデン・タウン・グループの中心人物として、都市の陰影ある日常を描き続けたイギリスの画家である。
まとめ
《切り裂きジャックの寝室》は、大家から聞かされたひとつの噂話をきっかけに、実際に暮らしていた部屋そのものを不穏な舞台へと変えてしまった1枚だ。曖昧に描かれた家具の影を見つめていると、この部屋に本当に何かが潜んでいたのかどうか、答えの出ない問いだけが静かに残る。
