マドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミーに、手のひらに載るほど小さな板絵がある。《異端審問の法廷(西:Auto de fe de la Inquisición、英:The Inquisition Tribunal)》と題されたこの絵は、スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤが1812年から1819年にかけて手がけたもので、当時なお続いていた異端審問という制度の実態を、静かに、しかし容赦なく描き出している。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | フランシスコ・デ・ゴヤ(1746〜1828) |
| 制作年 | 1812〜1819年頃 |
| 技法・素材 | 油彩・板 |
| サイズ | 46×73cm |
| 所蔵 | サン・フェルナンド王立美術アカデミー(マドリード) |
依頼によらない、画家自身の意志で描かれた1枚
本作は、《村の闘牛》《狂人院》《鞭打ち苦行者の行列》とともに、小さな板絵4点からなる連作の1つに数えられる。これらの作品はいずれも注文によるものではなく、画家自身の内発的な問題意識から生まれたと考えられている。正確な制作時期は明らかになっていないが、フランス占領期(半島戦争)以後のものとされる。当時、ゴヤをはじめとする自由主義者たちは、こうした古い慣習の廃止を望んでいたが、その改革は国王フェルナンド7世の絶対主義的な統治によって阻まれ続けていた。本作はかつてマヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラダの所蔵品であったことが知られている。
2度も審問にかけられたゴヤ自身
ゴヤは実際に、異端審問所から2度にわたって呼び出しを受けた経験を持つ画家でもある。1度目は1799年に発表した版画集《ロス・カプリチョス》をめぐるもので、2度目は1815年、教会当局が《着衣のマハ》と《裸のマハ》の存在を問題視したことがきっかけだったとされる。
1792年に重い病を患い聴力を完全に失って以降、ゴヤの画風は大きく変化し、人間の苦しみや残酷さを直視するような作品を多く手がけるようになった。本作もまた、そうした転換の延長線上に位置づけられる1枚である。
見どころ

詩の朗読でも聞くかのような裁判官
画面左手には、世俗の裁判官が唯一人、ゆったりと腰掛けている。まるで詩の朗読会にでも参加しているかのようなその落ち着いた様子が、これから下される過酷な判決との対比を際立たせている。
炎を模した円錐帽をかぶる4人の被告
画面中央から右にかけて、身体をよじらせて恐怖に震える4人の被告の姿が描かれている。彼らがかぶる炎の模様入りの円錐帽(コロサ、あるいはカピロテ)と、罪状を記したサンベニートと呼ばれる装束は、火刑という差し迫った運命を暗示する記号として用いられている。
居並ぶ修道会の聖職者たち
被告たちの背後には、ドミニコ会やフランシスコ会、カルトジオ会など、それぞれ異なる修道服をまとった聖職者たちが並んで座っている。この多様な修道会の存在が、異端審問という制度が教会組織全体を巻き込んだものであったことを物語っている。
皇帝のように振る舞う大審問官
画面奥、一段高い場所には大審問官の姿があり、まるでローマ皇帝が奴隷の生殺与奪を握るかのような、揺るぎない身振りで裁きを下している。この人物の姿勢そのものが、審問という制度に内在する権力の非対称性を象徴している。
実際に見るには
本作はマドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミーに所蔵されている。同館には連作をなす《村の闘牛》《狂人院》《鞭打ち苦行者の行列》もあわせて収蔵されており、これらを通して見ることで、ゴヤがこの時期に見つめ続けた、当時のスペイン社会に残る古い慣習への批判的なまなざしの広がりを知ることができる。
よくある誤解
この絵はしばしば「宗教弾圧を誇張して描いた告発の絵」として鑑賞されがちだが、実際にはゴヤの批判の方法は単純明快で、当時実際に行われていた異端審問の公開儀式を、ただ忠実に描写することにあったとされる。誇張された告発としてではなく、1478年に設置され1834年まで続いた異端審問という制度が、なおも「見世物」として公然と行われていたという事実そのものへの静かな証言として見ることで、この絵の本来の重みがより見えてくる。
FAQ
Q. 《異端審問の法廷》はどこで見られますか?
マドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミーに所蔵されている。
Q. この絵はいつ、なぜ描かれたのですか?
1812年から1819年頃、フランス占領期以後に、注文によらず画家自身の意志で描かれたとされている。
Q. 被告がかぶっている円錐形の帽子には意味がありますか?
コロサ(カピロテ)と呼ばれるこの帽子は炎の模様が描かれ、火刑という差し迫った運命を暗示している。
Q. ゴヤ自身も異端審問と関わりがあったのですか?
1799年の《ロス・カプリチョス》、1815年の《マハ》をめぐって、それぞれ異端審問所から呼び出しを受けている。
Q. 同じ連作の他の作品はありますか?
《村の闘牛》《狂人院》《鞭打ち苦行者の行列》があり、いずれも同じサン・フェルナンド王立美術アカデミーに所蔵されている。
まとめ
《異端審問の法廷》は、聴力を失って以降、人間の苦しみと残酷さを直視し続けたゴヤが、当時なお続いていた異端審問という制度の実態を、誇張することなく淡々と描き出した1枚だ。炎の帽子をかぶる被告たちと、皇帝のように振る舞う大審問官。自らも2度この制度に呼び出されたゴヤだからこそ、この対比をここまで冷静に描けたのだろう。
