サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に、幼子キリストに乳を与える聖母を描いた小さなテンペラ画がある。《リッタの聖母(伊:Madonna Litta、英:Madonna Litta)》と呼ばれるこの作品は、長らくレオナルド・ダ・ヴィンチの真筆とされてきたが、実はその作者をめぐって美術史家のあいだで今なお意見が割れ続けている。今回はこの絵の来歴と、なぜ「レオナルド作」という一言では片づけられないのかについて見ていく。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | レオナルド・ダ・ヴィンチ、またはその工房(帰属未確定) |
| 制作年 | 1490年頃 |
| 技法・素材 | テンペラ(板からカンヴァスへ移し替え) |
| サイズ | 42×33cm |
| 所蔵 | エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク) |
小さな1枚だが、この絵をめぐる議論の規模は決して小さくない。
「授乳の聖母」という主題
描かれているのは、聖母マリアが幼子イエスに乳を与える「マドンナ・ラクタンス(授乳の聖母)」と呼ばれる伝統的な図像である。2つのアーチ型の窓を背にした暗い室内という構成は、レオナルドがそれ以前に手がけた《カーネーションの聖母》とも共通しており、窓の向こうには空気遠近法で描かれた山並みが広がっている。幼子が左手に握っているのはゴシキヒワという小鳥で、これは後の受難を暗示する図像的な約束事として、当時のキリスト教絵画にしばしば登場するモチーフである。
頭部の傾きに残るレオナルドの筆致
聖母の頭部の傾きは、レオナルドの作品に特徴的なものとされ、実際にこの部分にほぼ一致する素描がルーヴル美術館に現存している。銀筆で描かれたこの習作は、レオナルド自身の手によるものとほぼ間違いないとされ、少なくとも構図の考案と聖母の頭部については、彼が直接関わったことを示す根拠の1つになっている。
なぜ「レオナルド作」と言い切れないのか
一方で、この絵の細部にはレオナルドらしからぬ点がいくつも指摘されている。幼子の手の描写がやや硬く、聖母の衣のひだの表現も比較的簡素であること、輪郭線が彼の他の作品に見られる柔らかなぼかし(スフマート)に比べて硬質であることなどがその根拠だ。
こうした点から、多くの研究者は、レオナルドが構図と聖母の頭部を手がけ、残りの部分は弟子のジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ、あるいは別の弟子マルコ・ドッジョーノが工房内で仕上げたのではないかと考えている。実際、ボルトラッフィオが残した「子どもの頭部の習作」という素描は、この絵の幼子キリストの顔とかなり近い形をしており、少なくとも彼がこの制作に関与した可能性を裏づける材料の1つとされている。
美術史家のあいだでも見解は分かれており、2019年のレオナルド没後500年に際しては、イギリスの研究者マーティン・ケンプが「この絵はボルトラッフィオの作品だ」と明言し、話題を呼んだこともあった。これに対しエルミタージュ側は、現在も本作をレオナルドの自筆作品として扱う立場を崩していない。つまり、この絵についての「正解」は、今のところ存在しないというのが実情である。
ミラノの貴族からロシア皇帝へ
この絵は、ミラノの名門貴族リッタ家の所蔵品として19世紀の大半を過ごしたことから、その名を取って《リッタの聖母》と呼ばれるようになった。1865年、皇帝アレクサンドル2世の時代にロシア側がこれを買い取り、エルミタージュ美術館の所蔵品となった。もとは板に描かれていたが、その後の保存状態への配慮からカンヴァスへと移し替えられている。
見どころ

頬を寄せる聖母と幼子
聖母は伏し目がちに幼子を見下ろし、幼子は乳を口に含みながら小さな手で聖母の胸元に触れている。母子のあいだに漂う親密さが、この絵の最大の魅力とされる部分である。
光輪(ハロー)の不在
聖母にも幼子にも、伝統的な宗教画に見られるはずの光輪が描かれていない。この省略は、レオナルドに帰属される他の聖母子像にも共通して見られる特徴であり、彼が人間としての母子の姿をより重視していたことを示す痕跡だと考えられている。
2つのアーチ窓の向こうの風景
背景の2つの窓からは、青みがかった山並みが遠くまで見渡せる。空気遠近法によって遠景がかすむように描かれたこの風景は、暗い室内の母子像に奥行きと静けさを与えている。
実際に見るには
本作はエルミタージュ美術館の常設展示室で見ることができる。同館にはレオナルドに帰属される作品がもう1点、《ブノワの聖母》も所蔵されており、あわせて見比べることで、彼の工房がどのように聖母子像という主題を反復し、発展させていったかがうかがえる。
FAQ
Q. 《リッタの聖母》は誰の作品ですか?
レオナルド・ダ・ヴィンチの真筆とする説と、彼の構図をもとに弟子のボルトラッフィオやマルコ・ドッジョーノが仕上げたとする説があり、今なお決着していない。
Q. なぜ帰属が疑われているのですか?
幼子の手の硬さや衣のひだの簡素さなど、レオナルドの他の作品に比べて筆致に違いが見られるためである。
Q. ルーヴル美術館の素描とはどんな関係がありますか?
聖母の頭部にほぼ対応する銀筆の素描がルーヴルに現存しており、この部分についてはレオナルド自身の手によるものとほぼ確実視されている。
Q. なぜ「リッタ」という名前がついているのですか?
19世紀にミラノの貴族リッタ家が所蔵していたことに由来する。
まとめ
《リッタの聖母》は、聖母子の親密な情景を描いた小さな1枚でありながら、その作者をめぐる議論は500年以上経った今も終わっていない。レオナルドが構図を考え、弟子が手を加えたのか、それとも彼自身が最後まで筆を執ったのか。断定を避けたまま眺めるほうが、むしろこの絵の実像に近いのかもしれない。
