《ティターニアとボトム(英:Titania and Bottom)》は、スイス出身でイギリスで活躍した画家ヘンリー・フュースリが1790年ごろに手がけた油彩画で、現在はロンドンのテート・ブリテンに所蔵されている。シェイクスピアの喜劇「夏の夜の夢」の一場面を描いたこの絵は、妖精たちの幻想的な世界と、ロバの頭を持つ男という滑稽な存在が同居する、奇妙な緊張感に満ちた一枚だ。今回はこの絵が生まれた背景と、画面のあちこちに仕込まれた引用の数々について見ていく。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ヘンリー・フュースリ(1741〜1825) |
| 制作年 | 1790年ごろ |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 約217.2×275.6cm |
| 所蔵 | テート・ブリテン(ロンドン) |
| 依頼主 | 出版業者ジョン・ボイデル |
一言でいうと
妖精の女王が、ロバの頭を持つ男にうっとりと寄り添う。滑稽なはずの場面が、フュースリの手にかかると、どこか不穏で夢のような光景に変わってしまう一枚。
制作背景
シェイクスピア・ギャラリーのための一枚
この絵は、出版業者ジョン・ボイデルが企画した「シェイクスピア・ギャラリー」のために依頼された作品だ。同ギャラリーは1789年にロンドンで開館し、シェイクスピア作品を主題にした絵画を集めることで、イギリス独自の絵画の学派を打ち立てようとする試みだった。フュースリの独創性は、まさにこうした試みの象徴として高く評価されていたという。
チューリヒ時代からのシェイクスピア熱
フュースリがシェイクスピアの戯曲に親しむようになったのは、チューリヒで学生だった時代、スイスの学者ヤーコプ・ボードマーのもとで学んでいたころにさかのぼる。とりわけ「夏の夜の夢」は、超自然的な世界を描くことを好んだフュースリにとって特別な魅力を持つ作品であり、「テンペスト」「ハムレット」「マクベス」といった他のシェイクスピア劇とあわせて、彼は生涯を通じてこれらの戯曲を絵画の主題として繰り返し取り上げている。
対をなす続編「ティターニアの目覚め」
フュースリはこの絵と対になる作品「ティターニアの目覚め」も、同じくボイデルのギャラリーのために手がけている。こちらは同じ場面のもう少し後の瞬間、すなわちティターニアが魔法から解けて目を覚ます場面を描いたもので、現在はスイス・ヴィンタートゥールの美術館に所蔵されている。
見どころ

ロバの頭を持つボトムと妖精の女王
画面中央には、妖精の女王ティターニアが、ロバの頭に変えられてしまった機織り職人ボトムに寄り添う姿が描かれている。夫オーベロンの魔法によって恋に落とされたティターニアが、召使いの妖精たちにボトムのあらゆる望みをかなえるよう命じる場面が、この絵の主題になっている。
名画からの引用が織り込まれた構図
この絵の随所には、フュースリが過去の名画から着想を得たとされる引用が見られる。ティターニアの誘うような姿勢は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「レダ」の構図を思わせるとされ、右側で花の萼に飛び込む小さな妖精たちの姿は、ボッティチェリが手がけたダンテ「神曲・天国篇」第30歌の挿絵に由来するという指摘もある。左側に描かれた蝶の頭を持つ少女は、子どもの顔立ちを猫やねずみといった小さな生き物に似せて描くという、レイノルズが確立した肖像画の型を踏襲したものとされている。
手のひらの上のホムンクルス
画面の中心近く、ボトムの手のひらの上には小さな人物、いわゆるホムンクルス(小さな人造人間)が描かれている。すがるような、あるいは抗うような身振りを見せるこの小さな存在は、大きさや年齢、性別、光と闇、人間と超自然といった、この絵全体に貫かれた対比のテーマを凝縮した象徴として読み解かれている。
妖精たちが作る幻想的な群像
画面には数多くの妖精や幻想的な生き物たちが描き込まれ、暗闇のなかから浮かび上がるように配置されている。フュースリが得意とした超自然的な主題への傾倒が、この賑やかで奇妙な群像のなかに存分に発揮されている。
実際に見るには
本作はロンドンのテート・ブリテンに所蔵されている。対になる「ティターニアの目覚め」はスイス・ヴィンタートゥールの美術館にあり、あわせて見ることで、フュースリがこの一場面をどのように前後に展開させて描いたのかをたどることができる。
よくある誤解
この絵はしばしば「シェイクスピア喜劇の一場面を描いた楽しい絵」として単純に紹介されがちだが、実際には過去の名画からの緻密な引用や、身分・階級を思わせる対比が随所に織り込まれた、きわめて計算された構成を持つ作品である。労働者階級であるボトムが怪物めいた姿で描かれる一方、ティターニアが恋に落ちてもなお貴族的な優雅さを保っている点には、当時の階級意識が反映されているという指摘もある。
FAQ
Q. 《ティターニアとボトム》はどこで見られますか?
ロンドンのテート・ブリテンに所蔵されている。
Q. この絵はどんな戯曲に基づいていますか?
シェイクスピアの「夏の夜の夢」第4幕第1場に基づいている。
Q. なぜボトムはロバの頭をしているのですか?
妖精の王オーベロンの魔法によって頭がロバに変えられ、同じ魔法でティターニアが彼に恋をしてしまうという筋書きになっている。
Q. この絵はどんな経緯で描かれたのですか?
出版業者ジョン・ボイデルが企画した「シェイクスピア・ギャラリー」のために依頼された作品である。
Q. 対になる作品はあるのですか?
「ティターニアの目覚め」という続編にあたる作品があり、スイス・ヴィンタートゥールの美術館に所蔵されている。
まとめ
《ティターニアとボトム》は、シェイクスピア喜劇の滑稽な一場面を、過去の名画への引用と幻想的な妖精たちの群像によって、不穏で夢のような光景へと作り変えた一枚だ。手のひらの上の小さな人物が象徴するように、この絵は笑いの裏側に、いくつもの対比と謎を静かに抱え込んでいる。
