《乾草の車》(英:The Hay Wain)は、イギリスの風景画家ジョン・コンスタブルが1821年に完成させた油彩画で、現在はロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されています。故郷サフォーク州の川辺の何気ない日常風景を描いたこの作品は、発表当初こそイギリスで買い手がつきませんでしたが、のちにフランスで熱狂的な支持を受け、印象派にまで影響を及ぼす英国絵画の代表作となりました。この記事では、描かれた場所の実際の背景と、本作がたどった意外な運命を見ていきます。
《乾草の車》とは — 基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ジョン・コンスタブル(1776〜1837) |
| 制作年 | 1821年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 130.2×185.4cm |
| 所蔵 | ナショナル・ギャラリー(ロンドン) |
| 原題 | 『風景:正午』 |
| 主題 | サフォークの川辺の日常風景 |
一言でいうと
《乾草の車》は、歴史的な事件でも英雄的な物語でもない、ありふれた田園の一瞬をそのまま丹念に描き出すことで、風景画という分野に新しい方向性を切り開いた作品です。特別な美化を加えず、雲の動きや光の移ろいを誠実に観察し続けた画家の眼差しが、静かな画面全体に息づいています。
制作背景 — なぜこの絵は生まれたのか
故郷フラットフォードの風景
本作の舞台は、サフォーク州とエセックス州の境を流れるストゥア川です。画面左岸がサフォーク、右岸がエセックスにあたります。この場所はコンスタブルの父が所有していたフラットフォード製粉所のすぐ近くにあり、幼いころのコンスタブルにとって慣れ親しんだ遊び場でもありました。浅瀬に乾草を積んだ空の荷馬車が乗り入れているのも、彼が幾度となく目にしてきた見慣れた光景だったと考えられています。
ウィリー・ロットのコテージ
画面左に描かれた家は、近隣の小作農ウィリー・ロットの住まいです。ロットはこの家で生まれ、生涯のうちで4日以上家を離れたことがなかったと伝えられています。ロットのコテージは現在もほとんど手を加えられないまま残っていますが、絵に描かれた木々はいずれも現存していません。
「6フッター」シリーズの一枚
本作は、コンスタブルがロイヤル・アカデミーの夏季展覧会のために手がけた、通称「6フッター(横幅約6フィートの大作)」と呼ばれる一連の作品の一つです。このシリーズではいずれも、本制作に取りかかる前に原寸大の油彩習作が作られており、《乾草の車》の習作は現在ヴィクトリア&アルバート博物館に所蔵されています。完成までには5か月を要したと伝えられています。
見どころ徹底解説

何気ない日常のワンシーン
画面には、乾草を積んだ空の荷馬車が浅瀬を渡り、対岸の牧草地へ向かおうとする様子が描かれています。岸辺の犬だけが顔を上げてこちらを見つめ、静かな水面には空の雲がそのまま映り込んでいます。太陽は画面の外、見る者のほぼ正面にあたる高い位置にあるように配置され、空を横切る雲が田園のそこかしこに影を落としています。特別な出来事ではなく、村の日常そのものを堂々と主題に据えた点に、本作の新しさがあります。
雲と光への丹念な観察
コンスタブルは雲や光の移ろいを丹念に観察し、記録するようにキャンバスへ定着させていきました。歴史的な廃墟や峻厳な山岳といった、いわゆる「ロマン」を感じさせる要素をあえて排し、身近な自然をそのまま描き出すという姿勢が、本作全体を貫いています。こうした自然観察に基づく描写は、のちの印象派の画家たちにも影響を与えたとされています。
アクセントとしての赤
コンスタブルはこの時期から、画面にアクセントを加える目的で赤い色を効果的に使うようになりました。本作でも馬の鞍にわずかに赤が差されており、緑と茶色を基調とした落ち着いた画面のなかで、視線を引きつける役割を果たしています。
発表当初の不評、そしてフランスでの熱狂
本作は1821年、ロイヤル・アカデミーの展覧会に『風景:正午』のタイトルで出品されましたが、当時は買い手がつきませんでした。アカデミズムを重んじるイギリス画壇では、ありふれた日常風景を真正面から描く本作の姿勢はなかなか評価されなかったのです。
しかしフランスでの評価はまったく異なりました。1824年のパリ・サロンにコンスタブルの他の作品とともに出品されると、大きなセンセーションを巻き起こします。この展示は、その年の初めに亡くなった画家テオドール・ジェリコーへのオマージュだったとも言われています。会場では本作がフランス国王シャルル10世から金メダルを授与され、荒々しくも生き生きとした筆致はドラクロワをはじめとする新世代のフランス人画家たちに大きな影響を与えました。
来歴 — 画商から国立美術館へ
パリでの展示の後、本作は画商ジョン・アローズスミスに他の3点のコンスタブル作品とともに売却され、別の画商D・T・ホワイトによってイギリスへ持ち帰られました。その後ワイト島のライドに住む人物ヤングに売却され、そこで収集家ヘンリー・ヴォーンや画家チャールズ・ロバート・レスリーの目に留まります。ヤングの死後、友人だったヴォーンがこの絵を買い取り、1886年にロンドンのナショナル・ギャラリーへ寄贈しました。ヴォーンは遺言により、パレットナイフで描かれた原寸大の油彩習作もサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア&アルバート博物館)へ遺贈しています。
実際に見るには
本作はイギリス・ロンドンのナショナル・ギャラリーで展示されています。原寸大の油彩習作はヴィクトリア&アルバート博物館に所蔵されており、あわせて見比べることで、コンスタブルがどのように本制作へと構図を練り上げていったかをたどることができます。
よくある誤解
本作はしばしば「発表当初から愛された英国の国民的名画」として語られがちですが、実際にはイギリス国内での評価は当初きわめて低く、買い手さえつきませんでした。本作が真に高く評価されたのはむしろフランスのサロンにおいてであり、その後時間をかけてイギリス国内でも再評価が進んでいったという経緯を踏まえて鑑賞する必要があります。
FAQ
Q. 《乾草の車》はどこを描いた絵ですか?
サフォーク州とエセックス州の境を流れるストゥア川沿い、コンスタブルの父が所有していたフラットフォード製粉所の近くを描いています。
Q. 画面左に描かれた家は誰の家ですか?
近隣の小作農ウィリー・ロットの家で、彼は生涯のうちで4日以上この家を離れたことがなかったと伝えられています。
Q. なぜ発表当初は買い手がつかなかったのですか?
アカデミズムを重んじるイギリス画壇では、ありふれた日常風景を主題とする本作の姿勢が評価されにくかったためです。
Q. フランスではどのように評価されましたか?
1824年のパリ・サロンで大きな話題となり、フランス国王シャルル10世から金メダルを授与され、ドラクロワら新世代の画家たちに影響を与えました。
Q. 原寸大の習作は今どこにありますか?
ヴィクトリア&アルバート博物館に所蔵されています。
まとめ
《乾草の車》は、故郷の何気ない川辺の風景を、特別な脚色を加えることなく丹念に描き出した作品です。発表当初はイギリスで見向きもされませんでしたが、フランスでの熱狂的な評価を経て、今日ではイギリス絵画を代表する一枚として広く親しまれています。雲と光への静かな観察眼こそが、この絵を時代や国境を越えて愛され続ける作品にしたといえるでしょう。
