マティアス・グリューネヴァルト(1470/80年頃〜1528)は、ドイツ・ルネサンス期の画家です。ルネサンスの古典的な様式には目もくれず、中世末期の表現主義的な様式を16世紀にまで持ち込んだその画業は、代表作《イーゼンハイム祭壇画》によって不朽の名声を得ていますが、実は「グリューネヴァルト」という名前自体、彼の本名ではなかったという、興味深い謎を秘めています。

基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | マティス・ゴタルト(またはニタルト/ナイタルト) |
| 生誕 | 1470〜80年頃(ヴュルツブルク) |
| 没年 | 1528年8月(ハレ) |
| 主な様式 | ドイツ・ルネサンス、後期ゴシック的表現主義 |
| 代表作 | 《イーゼンハイム祭壇画》 |
| 主な後援者 | マインツ大司教ウリエル・フォン・ゲミンゲン、アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク枢機卿 |
一言でいうと
マティアス・グリューネヴァルトは、ルネサンスの古典的な調和や理想美には目もくれず、中世末期の激しい感情表現を16世紀にまで持ち込むことで、後の20世紀ドイツ表現主義の先駆けとも評される、極めて個性的な宗教画を生み出した画家でありながら、実は今日知られる「グリューネヴァルト」という名前自体が、後世の伝記作者による誤りに由来する、本名ではない呼称だったという、興味深い謎を抱えた人物である。
生涯
「グリューネヴァルト」という名の謎
この画家の生涯については、確かな記録が乏しく、今日でも多くの部分が謎に包まれています。何より興味深いのは、私たちが「マティアス・グリューネヴァルト」として知るこの人物の名前が、実は同時代の史料には一切登場しないという事実です。この名前は、17世紀の伝記作者ヨアヒム・フォン・ザンドラルトが著書『ドイツ・アカデミー』の中で、彼を「マテウス・グリューネヴァルト」と誤って紹介したことに由来しています。この誤った名称は、ザンドラルトの著作が広く読まれたことで定着してしまい、今日に至るまで使われ続けています。同時代の史料に実際に登場する彼の名前は、「マティス・ゴタルト」あるいは「マティス・ニタルト(ナイタルト)」という表記でした。
マインツ大司教の宮廷画家として
彼が確実に記録に登場するのは1500年頃で、ゼーリゲンシュタットまたはアシャッフェンブルクの町においてでした。確実に年代の判明する最初の作品《キリストの嘲弄》(1503年)は、彼がすでに親方として独立していたことを示しています。1509年頃から11年にかけて、彼はマインツ大司教ウリエル・フォン・ゲミンゲンの宮廷画家となり、後には次の大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクにも仕え続けました。この頃、デューラーが手がけたばかりの《聖母被昇天》祭壇画に、2枚の翼絵を追加する依頼を受けたとも伝えられています。
フランクフルトでの結婚生活と代表作の制作
1512年、彼はフランクフルト近郊に居を構え、家を購入するとともに、ユダヤ教から改宗したばかりの、当時18歳ほどだったとされるアンナという女性と結婚しました。しかしこの結婚生活は幸福なものではなかったと伝えられており、1523年、アンナは精神的な病、あるいは悪霊に取り憑かれていると見なされて施設に収容されることになります。
まさにこの時期、1512年から16年にかけて、彼は生涯最大の依頼、すなわち代表作《イーゼンハイム祭壇画》の制作に取り組んでいました。この祭壇画は、フランス・アルザス地方の聖アントニウス修道院付属病院のために手がけられたもので、今日彼の画業の最高到達点とされています。1520年には、大司教となったアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク枢機卿の依頼により、《聖エラスムスと聖マウリティウスの出会い》を手がけました。この絵に描かれた聖エラスムスの顔立ちは、依頼主である枢機卿自身をひそかに描いたものではないかとも言われています。
宗教改革との関わりと晩年
深く敬虔な人物でありながら、グリューネヴァルトはルター派の宗教改革運動や、1525年のドイツ農民戦争にも共感を抱いていたとされています。1528年、プロテスタントの都市ハレで彼が没した際、遺品の目録作成の中で、釘で打ち付けられて封じられた引き出しの中から、プロテスタントの文書が発見されたと伝えられています。1526年から27年にかけてはフランクフルトで活動し、1527年にはハレへと招かれ、マクデブルク市からフランクフルトの水車の図面制作を依頼されるなど、晩年まで様々な仕事に携わっていました。1528年、ハレで没したことが翌年に発表されています。
代表作
- 《イーゼンハイム祭壇画》(1512〜16年):病院の患者たちのために描かれた、生々しい磔刑表現で知られる最大の代表作。ウンターリンデン美術館(コルマール)所蔵。
- 《聖エラスムスと聖マウリティウスの出会い》(1517〜19年頃):依頼主アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク枢機卿の顔を反映しているとされる作品。
- 《キリストの嘲弄》(1503年):確実に年代の判明する最初期の作品。
評価
グリューネヴァルトの作品は、19世紀後半に至るまで正当な評価を受けることなく、その多くが、様式的にはほぼ対極に位置するとされるアルブレヒト・デューラーの作品として誤って伝えられていました。今日確実に彼の手によるものと確認されている作品は、複数の多翼祭壇画を含む10点ほどの絵画と、35点の素描にとどまっており、他の多くの作品は、戦争の戦利品としてスウェーデンへ輸送される途中、海で失われたと伝えられています。ゆがめられた人物像や誇張された身振り、そしてねじれた樹木や建築表現を特徴とするその激しく個人的な表現様式は、今日では20世紀のドイツ表現主義の先駆けとしても高く評価されています。
よくある誤解
誤解①「グリューネヴァルトとは彼の本名である」→ 実際は17世紀の伝記作者による誤りに由来する呼称である
今日広く定着していることから、これが彼自身の本名だと思われがちですが、実際には同時代の史料には一切登場せず、17世紀の伝記作者ヨアヒム・フォン・ザンドラルトの誤記に由来する名前であり、彼自身が実際に使っていた名前は「マティス・ゴタルト」または「マティス・ニタルト」でした。
誤解②「グリューネヴァルトの作品は常に彼自身の作として正しく評価されてきた」→ 実際は19世紀後半までデューラーの作品と誤認されていた
今日の高い評価から、常に独自の画家として認識され続けてきたと思われがちですが、実際には彼の作品の多くは19世紀後半に至るまで、様式的にはほぼ対極とされるアルブレヒト・デューラーの作品として誤って伝えられていました。
FAQ
Q. マティアス・グリューネヴァルトとはどんな人物ですか?
A. ドイツ・ルネサンス期の画家で、中世末期の表現主義的な様式を16世紀に持ち込んだ、極めて個性的な宗教画で知られています。代表作は《イーゼンハイム祭壇画》です。
Q. なぜ「グリューネヴァルト」という名前は本名ではないのですか?
A. 17世紀の伝記作者ヨアヒム・フォン・ザンドラルトが彼を誤って「マテウス・グリューネヴァルト」と紹介したことに由来し、この誤った名称がそのまま定着してしまったためです。
Q. グリューネヴァルトの作品はどのくらい現存していますか?
A. 確実に彼の手によるものと確認されている絵画は10点ほどにとどまり、他の多くの作品は戦争の戦利品として輸送される途中で失われたと伝えられています。
Q. グリューネヴァルトの代表作はどこで見られますか?
A. 代表作《イーゼンハイム祭壇画》は、フランス・コルマールのウンターリンデン美術館が所蔵しています。
まとめ
マティアス・グリューネヴァルトは、ルネサンスの古典的な調和や理想美には目もくれず、中世末期の激しい感情表現を16世紀にまで持ち込むことで、後の20世紀ドイツ表現主義の先駆けとも評される、極めて個性的な宗教画を生み出した画家でありながら、実は今日知られる「グリューネヴァルト」という名前自体が、後世の伝記作者による誤りに由来する、本名ではない呼称だったという、興味深い謎を抱えた人物です。500年近くを経た今もなお、彼が描いた激しい苦悩の表現は、見る者の心を揺さぶっています。

