東京・上野の国立西洋美術館に、ほぼ正方形の大画面いっぱいに水面と睡蓮の花が広がる油彩画がある。《睡蓮(仏:Nymphéas)》と題されたこの絵は、フランス印象派を代表する画家クロード・モネが1916年に手がけたもので、実業家・松方幸次郎が築いた「松方コレクション」の1点として、数奇な経緯を経て日本にたどり着いた作品だ。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | クロード・モネ(1840〜1926) |
| 制作年 | 1916年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 200.5×201cm |
| 所蔵 | 国立西洋美術館(東京・上野、松方コレクション) |
地平線を持たない、水面だけの世界
本作最大の特徴は、画面のどこにも明確な地平線や空が描かれていない点にある。睡蓮の花や葉、水面、そしてそこに映り込む空の反射が渾然一体となり、見る者は現実の風景というより、光そのものの流れのなかに引き込まれるような感覚を覚える。モネが晩年に到達した、水面表現の極致を示す1枚とされている。
実業家・松方幸次郎が築いたコレクション
本作が現在、国立西洋美術館に所蔵されている背景には、実業家・松方幸次郎の存在がある。松方は、明治の元勲であり総理大臣も務めた松方正義の三男で、川崎造船所の初代社長を務めた人物だ。第一次世界大戦中、造船業で莫大な利益を上げた彼は、1916年頃からおよそ10年にわたって度々ヨーロッパを訪れ、画廊を巡っては数多くの美術品を買い集めていった。この収集品全体が、後に「松方コレクション」と呼ばれることになる。
しかし第二次世界大戦後、フランスに残されていたコレクションの多くは敵国財産として接収されてしまう。1959年、フランス政府がその一部を日本へ寄贈返還したことを受け、これを保存・公開するために設立されたのが、現在の国立西洋美術館だった。本作もまた、こうした経緯を経て日本にたどり着いた1枚である。
60年ぶりに発見された「幻の大作」との関わり
松方コレクションをめぐっては、もう1つ興味深いエピソードがある。同じ1916年に制作された関連作《睡蓮、柳の反映》は、パリのオランジュリー美術館にある全長90メートルの大装飾画群に連なる習作の1つとされ、長らく「幻の大作」として行方が分からなくなっていた。この絵は数十年後、カンヴァス上半分が失われた痛ましい状態でルーヴル美術館において発見され、モネの署名と「1916年」という年記から松方コレクションの一部だったことが確認された。2017年11月にフランス政府から松方家へ返還され、その後国立西洋美術館へ寄贈されて話題を呼んでいる。
見どころ

境界の消えた花と水面
画面には、赤や黄、白の睡蓮の花が水面のあちこちに点在している。花と葉、そして水に映る反射との境界があいまいになっており、どこまでが実際の植物で、どこからが水面の反映なのか、判然としない構成になっている。
深い青と緑が織りなす色彩の響き
画面全体は、深い青と緑を基調とした色彩で満たされている。モネはこの時期、白内障による視力の悪化に悩まされながらも制作意欲を失わず、色の判別が難しくなったためにパレットの位置を頼りに絵具を選んだと伝えられている。そのためこの時期の作品には、通常のモネの作風には見られない激しい色使いが表れることがある。
ジヴェルニーの庭が育んだ晩年の集大成
本作は、モネが自ら手がけた庭園ジヴェルニーの睡蓮の池を主題としており、彼が晩年に情熱を注いだ大装飾画群、後のオランジュリー美術館の壁画へとつながる系譜に連なる作品である。
実際に見るには
本作は東京・上野の国立西洋美術館の常設展示で見ることができる。2024年から2025年にかけては、同館で「モネ 睡蓮のとき」と題した展覧会も開催され、パリのマルモッタン・モネ美術館からの貸与作品とあわせて、モネの晩年における水面表現の変遷をたどる機会が設けられた。
FAQ
Q. この《睡蓮》はどこで見られますか?
東京・上野の国立西洋美術館に、松方コレクションの1点として所蔵されている。
Q. 「松方コレクション」とは何ですか?
実業家・松方幸次郎が第一次世界大戦前後にヨーロッパで買い集めた美術品群で、戦後の接収と返還を経て国立西洋美術館の設立につながった。
Q. なぜこの絵には地平線が描かれていないのですか?
モネが晩年に追求した、水面と反射が一体化した独自の表現によるものとされている。
Q. 《睡蓮、柳の反映》とはどんな関係がありますか?
同じ1916年に制作された関連作で、長らく行方不明だったが後にルーヴル美術館で発見され、松方コレクションの一部として国立西洋美術館に加わった。
Q. モネはなぜこの時期に激しい色使いをしているのですか?
白内障による視力の悪化で色の判別が難しくなり、パレットの位置を頼りに制作していたためとされている。
まとめ
国立西洋美術館の《睡蓮》は、モネが晩年に追求した水面表現の到達点であると同時に、実業家・松方幸次郎の収集と、戦後の接収・返還という数奇な歴史を経て日本にたどり着いた1枚だ。地平線のない、花と水面が溶け合う画面。視力の衰えと闘いながらも、モネはここまで制作の手を緩めなかった。
