《バベルの塔》は、フランドルの画家ピーテル・ブリューゲルが手がけた、旧約聖書『創世記』の一場面を主題にした絵画です。実はこの作品には現存するだけで2つのバージョンがあり、それぞれウィーン美術史美術館とロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館に所蔵されています。天まで届く塔を建てようとした人間の傲慢を描いたこの絵は、古代ローマの円形闘技場コロッセオをモデルにしているとされ、緻密きわまりない建築描写で見る者を圧倒します。この記事では、この作品の見どころ、「大バベル」と「小バベル」2作品の違い、そしてコロッセオがモデルとされる理由までを解説します。
《バベルの塔》とは — 基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ピーテル・ブリューゲル(1525/30年頃〜1569年) |
| 制作年 | 「大バベル」1563年、「小バベル」1568年以前 |
| 技法・素材 | 油彩・板 |
| サイズ | 「大バベル」114×155cm、「小バベル」59.9×74.6cm |
| 所蔵 | 「大バベル」ウィーン美術史美術館、「小バベル」ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館(ロッテルダム) |
| 主題 | 旧約聖書『創世記』11章、人間の傲慢を戒める物語 |
一言でいうと 《バベルの塔》は、古代ローマのコロッセオをモデルに、天まで届く塔を築こうとした人間の傲慢と、その企てが破綻する予兆を、驚異的な緻密さで描き出した、ブリューゲルを代表する宗教画である。
制作背景 — なぜこの作品が生まれたのか
聖書が語る「言葉の混乱」の物語
『創世記』11章によれば、ノアの大洪水の後、一つの言語を話していた人類は、天まで届く塔を築こうと企てます。この傲慢な野心に怒った神は、人間の言葉を混乱させて互いに意思疎通できないようにし、塔の建設は頓挫しました。今日世界に多様な言語が存在する理由を説明するこの物語は、人間の科学技術への過信を戒める寓話としても読まれてきました。
ローマ滞在とコロッセオとの出会い
ブリューゲルは1552年から1553年にかけてイタリアを旅し、ローマに滞在しました。この地で実際に見たコロッセオの遺跡は、ブリューゲルに強い印象を残したと考えられています。帰国後、版画業者ヒエロニムス・コックと共同で、ローマ滞在中に見た史跡を版画化しており、《バベルの塔》の緻密な建築描写には、この経験が生かされています。実はブリューゲルは生涯に3度この主題に取り組んでおり、最初の1点はローマ滞在中に象牙へ描かれた細密画でしたが、現存していません。現存するのは、後年制作された「大バベル」と「小バベル」の2点です。
見どころ徹底解説


構図 — コロッセオに擬えられた塔
ブリューゲルが描く塔は、古代ローマ建築を思わせる無数のアーチによって構成されており、意図的にコロッセオに似せて表現されています。コロッセオは、キリスト教徒にとって、尊大さとかつての迫害を象徴する場所でもありました。塔の建設現場には、人力式のクレーンや回転ドラムといった当時最新の建設技術が精密に描き込まれ、資材を運ぶ船や、現場で働く人々の生活の様子までが、驚くほど克明に表現されています。画面手前には、灰色のマントをまとった人物が描かれており、これは旧約聖書でこの塔の建設を命じたとされる王ニムロドだと考えられています。
技法 — 「世界風景」の伝統を受け継ぐ
この作品には、ブリューゲルが初期に得意とした「ワールド・ランドスケープ(世界風景)」と呼ばれる、パノラマ的な視野と緻密な細部描写を両立させる伝統的な様式が生かされています。「小バベル」には、なんと約1,400人もの人物が描き込まれているとされ、サイズこそ小さいものの、細部の緻密さでは「大バベル」を凌ぐとも評されています。
図像学 — 崩壊を予兆する不安定な構造
塔は一見壮麗にそびえ立っていますが、よく見ると、下層部が未完成のまま上層部の建設がすでに始まっているなど、随所に構造的な不安定さが表現されています。らせん状に積み上げられていく塔の姿は、この壮大な建造物がいずれ崩壊する運命にあることを、静かに予告しているかのようです。
💡 ここに注目(編集部より) 「大バベル」と「小バベル」を見比べるときは、塔の建材の違いに注目してみてください。「大バベル」では自然の岩山を土台に取り込んで塔が築かれているのに対し、「小バベル」では、塔のすべてが人間の焼いたレンガだけで作られています。すべてを人工物で築こうとする「小バベル」の塔には、人間の傲慢さがより一層強く表現されているといえるでしょう。
「大バベル」と「小バベル」を比べる
| 大バベル(ウィーン) | 小バベル(ロッテルダム) | |
|---|---|---|
| 制作年 | 1563年 | 1568年以前 |
| サイズ | 114×155cm | 59.9×74.6cm |
| 塔の土台 | 自然の岩山を取り込む | すべて人工のレンガのみ |
| 地平線 | やや高い | より低く、塔の威圧感が増す |
| 建設の進み具合 | 下層が未完成 | より完成に近い、神の裁きが迫る印象 |
| 特記事項 | 18世紀に上部と右側が切り取られ、当初はさらに大きかったと推測される | 約1,400人の人物が描かれ、細部の緻密さで大バベルを凌ぐとも評される |
ある見方によれば、地平線が低く塔がより完成に近いロッテルダム版は「神の目に映る、ちっぽけな人間の営み」を、地平線がやや高く、自然の岩山とともに描かれるウィーン版は「人間の目に映る、果てしなく巨大な理想」を、それぞれ象徴しているとも解釈されます。ただし、これはあくまで一つの解釈であり、断定的な結論ではありません。
作品の来歴
現存する2作品のうち、「大バベル」は早くからウィーンの皇室コレクションに収蔵され、現在は美術史美術館の所蔵となっています。18世紀には上部と右側が切り取られたとされ、制作当初はさらに大きな画面だったと推測されています。「小バベル」は、19世紀創立のオランダ屈指の美術館、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の所蔵となっています。2017年、この「小バベル」は24年ぶりに来日し、東京都美術館で開催された「バベルの塔展」で大きな話題となりました。
評価と影響
《バベルの塔》は、ブリューゲルの緻密な観察眼と建築的知識を最もよく示す作品として、美術史上高く評価されています。近年の研究では、ロンドンの大英博物館が所蔵する、ローマの遺跡(おそらくコロッセオ)を描いたもう1点の絵画についても、ブリューゲルの作である可能性が指摘されており、この画家がこの主題にいかに強い関心を寄せていたかを物語っています。
実際に見るには
「大バベル」はオーストリア・ウィーンの美術史美術館、「小バベル」はオランダ・ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館が、それぞれ常設所蔵しています。訪問前に、目当ての作品がどちらの美術館にあるか確認することをおすすめします(最終確認日:2026年7月10日)。
よくある誤解
誤解①「ブリューゲルの《バベルの塔》は1点しか存在しない」→ 現存するだけで2点、記録上は3点制作された
《バベルの塔》は単一の作品だと思われがちですが、実際には「大バベル」(ウィーン)と「小バベル」(ロッテルダム)という、現存する2点の作品が存在します。さらにローマ滞在中に象牙へ描かれた最初の1点(現存せず)を含めると、ブリューゲルは生涯に3度この主題に取り組んだと考えられています。
誤解②「小さい方の『小バベル』は、大きい方の作品より簡略化された習作である」→ 細部の緻密さでは大バベルを凌ぐとも評される
「小バベル」という呼び名や、実際のサイズの小ささから、簡易的な習作だと誤解されることがあります。しかし実際には、約1,400人もの人物が描き込まれるなど、細部の緻密さにおいて「大バベル」を上回るとも評価されており、決して劣った作品ではありません。
FAQ
Q. 《バベルの塔》はなぜ2つのバージョンがあるのですか?
A. ブリューゲルが生涯に複数回この主題に取り組んだためです。現存する2点に加え、ローマ滞在中に象牙へ描いた最初の1点(現存せず)を含めると、記録上は3点制作されたと考えられています。
Q. バベルの塔はなぜコロッセオに似ているのですか?
A. ブリューゲルが1552年から1553年のローマ滞在中に実際にコロッセオを見た経験が反映されているためです。コロッセオはキリスト教徒にとって尊大さと迫害の象徴でもあり、人間の傲慢を描くこの物語のモデルとしてふさわしいと考えられたようです。
Q. 「大バベル」と「小バベル」はどちらが有名ですか?
A. 一般には「大バベル」(ウィーン美術史美術館所蔵)の方が広く知られていますが、2017年に「小バベル」が日本で展示された際には、その緻密な描写が大きな話題を呼びました。どちらも甲乙つけがたい傑作です。
Q. 《バベルの塔》はどこで見られますか?
A. 「大バベル」はウィーンの美術史美術館、「小バベル」はロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館が、それぞれ所蔵しています。
まとめ
《バベルの塔》は、古代ローマのコロッセオをモデルに、天まで届く塔を築こうとした人間の傲慢を、驚異的な緻密さで描き出した作品です。「大バベル」と「小バベル」という2つのバージョンは、同じ主題でありながら、建材や構図の違いを通じて、それぞれ異なる人間観を提示しています。崩壊を予兆する不安定な構造の中に、ブリューゲルは、人間の野心とその限界という、時代を超えた普遍的なテーマを描き込んでいるのです。

