東方見聞録とマルコ・ポーロ|中国に行っていない?論争を続ける旅行記を徹底解説

牢獄の中で語られた冒険譚が、後にヨーロッパ人のアジア観そのものを形作ることになった。しかし皮肉なことに、この旅行記の主人公が本当に中国まで足を運んだのかどうかという、最も根本的な疑問は、出版から700年以上を経た今も、完全には決着していない。この記事では、『東方見聞録』がどのように生まれ、なぜこの論争が続いているのかを見ていく。

目次

定義

『東方見聞録』(原題は『世界の記述』、通称『イル・ミリオーネ』)とは、13世紀のヴェネツィア商人マルコ・ポーロが、自らの東方への旅の記録として語った内容を、獄中で出会った作家ルスティケッロ・ダ・ピサが書き留めた旅行記を指す。1271年から1295年にかけての旅を題材とし、モンゴル帝国の皇帝フビライ・ハンの宮廷や、中国各地の様子を詳細に描写したこの書物は、長らくヨーロッパにおける東洋理解の主要な情報源として扱われてきた。しかし1995年、歴史家フランシス・ウッドがこの旅の実在そのものに疑問を投げかけたことで、今日まで続く論争が始まっている。

具体例

『東方見聞録』をめぐる実像は、以下のような具体的な事実からうかがえる。

  • マルコ・ポーロは1271年、商人だった父ニッコロと叔父マッフェオとともに、東方への旅に出たとされる
  • 1298年、ヴェネツィアとジェノヴァの海戦で捕虜となったマルコは、獄中で作家ルスティケッロと出会い、彼に自らの旅を語り聞かせた
  • 今日、この書物のオリジナルの原本は失われており、内容も文体も異なる約150種類もの写本が現存している
  • フランシス・ウッドは、書物の中に万里の長城や箸、茶、纏足といった中国の基本的な事物への言及が一切ないことを、彼が実際には中国へ行かなかった証拠として挙げている

背景

13世紀、モンゴル帝国はユーラシア大陸の広範囲を統一し、「パクス・モンゴリカ」と呼ばれる比較的安定した時代のもと、東西の交流が活発化していた。ヴェネツィアの商人一族だったポーロ家は、この情勢を背景に、東方との交易に商機を見出していく。書物の序文によれば、マルコは1271年、すでに一度東方への旅を経験していた父と叔父とともに、再び東方を目指して出発したとされている。

展開

語られた旅の物語

書物の記述によれば、マルコと一行はシルクロードを経由してモンゴル帝国の宮廷にたどり着き、皇帝フビライ・ハンに謁見した。フビライはマルコの聡明さを高く評価し、彼を特使として中国各地の様々な地方へと派遣したという。マルコはこの地で17年近くを過ごした後、1295年、家族とともにヴェネツィアへ帰還した。しかしその頃には、彼らの姿はあまりに変わり果てており、身内の者たちでさえ、彼らの正体をすぐには信じられなかったと伝えられている。

獄中で生まれた書物

帰国から3年後の1298年、マルコはヴェネツィア軍の一員として、宿敵ジェノヴァとの海戦に参加した際に捕虜となった。ジェノヴァの牢獄で、彼は物語作家として知られていたルスティケッロ・ダ・ピサと出会う。マルコは自らの旅の記憶をルスティケッロに語り聞かせ、ルスティケッロがこれを書物としてまとめ上げていった。1299年、2人が釈放される頃には、後世マルコ・ポーロの名を不朽のものにする、この書物が完成していたとされる。

「中国へ行っていない」という異論

長らくこの書物は、実際の旅の記録として広く信じられてきた。しかし1995年、大英図書館中国部門の責任者だった歴史家フランシス・ウッドは、著書『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』の中で、この定説に真っ向から異を唱えた。彼女の主張によれば、マルコは実際には黒海周辺、あるいはせいぜいペルシャまでしか到達しておらず、中国に関する記述は、ペルシャやアラビアの旅行記から得た情報をもとに構成された可能性が高いという。彼女はその根拠として、万里の長城や纏足、お茶、箸といった、当時の中国社会に不可欠な要素への言及が、この書物にまったく見当たらないことを挙げている。さらに、記録管理に非常に几帳面だった当時の中国側の史料の中にも、マルコ・ポーロの名がまったく見つからないという点も、彼女の疑念を裏付ける材料とされた。

今日の論争の焦点

もっとも、この異論に対しては反論も相次いでいる。中国の膨大な類書『永楽大典』の中に、彼の記述と符合する可能性のある行政上の記録が発見されたとする指摘もある。歴史家ピーター・ジャクソンをはじめとする一部の研究者は、その後の研究の蓄積によって、この論争はすでに大筋で決着していると評価している。今日残る議論の焦点は、より限定的なものになっている。マルコが揚州で実際にどれほどの公式な役職を担っていたのか、彼自身が宮廷での自らの重要性をどこまで誇張していたのか、そして最終的な文章のどこまでがルスティケッロの脚色によるものなのか、といった、より細かな点に絞られてきているのが実情である。

現代への影響

『東方見聞録』は、その史実性をめぐる論争とは別に、後の探検家たちに大きな影響を与え続けた書物として、今日も特別な地位を占めている。コロンブスが所持していた写本には、彼自身が書き込んだ膨大な注釈が残されており、この書物が大航海時代の探検家たちの想像力をどれほど刺激したかを物語っている。史実性への疑念があるとはいえ、この書物が数世紀にわたってヨーロッパ人のアジア観を形作り続けてきたという事実そのものは、揺るがない歴史的な意義として残り続けている。

よくある誤解

誤解①「マルコ・ポーロが中国へ行っていない可能性は、今日の歴史学ではほぼ確定した通説である」→ 実際は多くの研究者が実在の旅だったと考えている

フランシス・ウッドの著書のインパクトから、この異論が今日の主流な見解であるかのように思われがちだが、実際には多くの歴史家がその後の研究を通じて彼女の主張に反論しており、今日の議論はむしろ「行ったかどうか」ではなく、「どこまで正確に、どんな役職で」という、より限定的な論点に移っている。

誤解②「『東方見聞録』は、マルコ・ポーロ自身が一人で書き上げた著作である」→ 実際は獄中で出会った作家との共同作業によって生まれた

マルコ・ポーロの単独の著作として語られがちだが、実際にはこの書物は、獄中で出会った物語作家ルスティケッロ・ダ・ピサに口述する形で作られたものであり、最終的な文章表現には、ルスティケッロ自身の創作的な脚色も加わっていたと考えられている。

FAQ

Q. 『東方見聞録』とはどんな書物ですか?
A. 13世紀のヴェネツィア商人マルコ・ポーロが、自らの東方への旅を、獄中で出会った作家ルスティケッロに語り聞かせて成立した旅行記です。長らくヨーロッパにおける東洋理解の主要な情報源として扱われてきました。

Q. なぜマルコ・ポーロが中国へ行っていないという説が生まれたのですか?
A. 1995年、歴史家フランシス・ウッドが、書物の中に万里の長城や箸、茶といった中国の基本的な事物への言及が一切なく、中国側の記録にも彼の名が見当たらないことを根拠に、この疑問を提起しました。

Q. この論争は今日どうなっているのですか?
A. 多くの歴史家がその後の研究を通じてウッドの主張に反論しており、今日の議論は「行ったかどうか」よりも、彼の役職の正確さや、記述のどこまでがルスティケッロの脚色かという、より限定的な論点に移っています。

Q. 『東方見聞録』は誰が書いたのですか?
A. マルコ・ポーロ自身ではなく、獄中で出会った物語作家ルスティケッロ・ダ・ピサが、マルコの口述をもとに書き上げたものとされています。

まとめ

牢獄という不自由な場所で語られた記憶が、後の探検家たちの手にする地図の余白を埋め、大航海時代そのものを後押しすることになった。しかしその記憶の正確さをめぐる論争は、700年以上を経た今もなお、完全には決着していない。旅の真偽そのものよりも、この一冊の書物が人類の世界観をどれほど動かしたかという事実の方が、あるいはより重い意味を持っているのかもしれない。

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