「世界一周を成し遂げた男」として歴史に名を残すマゼランは、実際にはその航海の完遂を、自らの目で見届けることは一度もなかった。フィリピンの浅瀬で命を落とした彼の遺志を、生き残ったわずかな部下たちが引き継ぎ、ようやく地球を一周する航海として完結させたのである。この記事では、この矛盾を抱えた提督の生涯をたどっていく。
生涯
ポルトガル貴族の少年時代
マゼラン(フェルナン・デ・マガリャンイス)は1480年頃、ポルトガル北部のポルトあるいはサブロサで、下級貴族の家に生まれた。両親を10歳の頃に亡くした彼は、リスボンの王宮へ送られ、まずは王妃の小姓として仕えることになる。この王妃レオノールの小姓学校で、彼は数学・天文学・航海術といった、後の人生を大きく左右することになる学問に触れていった。
東方での軍歴
成人したマゼランは、1505年、ポルトガル艦隊の一員として東アフリカへの航海に加わり、ソファラやキルワといった地での軍事行動に参加した。1509年にはインド西部のディウの戦いに、1510年にはゴアの征服に、そして1511年にはマラッカ征服にと、次々と要職を務めていく。しかしこの東方での経歴の終盤、彼は正式な許可のないまま独断で航海に出たとされ、これが原因で指揮権を解かれてしまう。1512年、8年に及んだ東方での勤務を終え、ポルトガルへ帰国した。
祖国からの離反
帰国後、マゼランは1514年、ブラガンサ公のもとでモロッコ遠征に従軍し、この戦いで負傷している。しかしこの遠征中、彼は汚職疑惑に巻き込まれ、国王マヌエル1世からの信頼を大きく損なうことになった。決定的だったのは、マゼランが西回りでモルッカ諸島(香料諸島)へ到達するという構想を、国王マヌエル1世に提案した際の対応だった。国王はこの計画への支援を拒否する。コロンブスがイタリアでの支援を諦めスペインへ向かったように、マゼランもまた、自国での失望を経て、隣国スペインに望みを託すことを決意する。
スペインでの新たな出発
1517年、マゼランはセビリアへ渡り、商人たちとの人脈を通じて、この地で結婚し、2人の子をもうけている。彼は粘り強い交渉の末、若きスペイン国王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)から、この壮大な計画への支援を取り付けることに成功した。国王はこの提案に感銘を受け、即日でこの遠征を承認したと伝えられている。準備期間中、マゼランはポルトガルやヴェネツィアから送り込まれたとされるスパイによる妨害工作や、船員たちの暴動未遂にも対処しながら、1年をかけて出航の準備を整えていった。
出航と反乱
1519年9月20日、マゼランはセビリアのサンタ・マリア・デ・ラ・ビクトリア教会で忠誠の誓いを立てた後、5隻の船と270人の乗組員を率いてスペインを出発した。義兄弟のドゥアルテ・バルボザや、忠実な部下ジョアン・セラーノもこの航海に同行している。船団はブラジル沿岸を経て南下し、パタゴニアのサン・フリアン湾に至ったところで、1520年3月から8月にかけて越冬を余儀なくされた。この間、スペイン人の船長たちを中心とした反乱が発生したが、マゼランはこれを鎮圧し、首謀者だけを厳しく処罰することで、船団の統制を保っている。
太平洋を越えて、そして最期
反乱を乗り越えた船団は、南米大陸南端の海峡(後にマゼラン海峡と名付けられる)を発見し、この過程で1隻は難破し、もう1隻は脱走してスペインへと引き返してしまう。残った船団は、彼が「太平洋」と名付けることになる広大な海を横断し、フィリピン諸島へとたどり着いた。しかし1521年4月27日、マゼランはマクタン島の首長ラプラプとの戦闘に巻き込まれ、この地で命を落とす。彼は自ら計画した航海の完遂を、見届けることができなかった。
主要な出来事
- 1480年頃:ポルトガル北部で誕生
- 1505年:ポルトガル艦隊に加わり東アフリカへ
- 1511年:マラッカ征服に参加
- 1514年:モロッコ遠征で負傷、その後国王の信頼を失う
- 1517年:スペインへ移住、結婚
- 1519年9月20日:5隻の船団を率いスペインを出発
- 1520年3〜8月:パタゴニアで反乱を鎮圧
- 1520年:マゼラン海峡を発見
- 1521年4月27日:マクタン島で戦死(40〜41歳)
現代への影響
マゼランの死後、残った部下フアン・セバスティアン・エルカーノが指揮を引き継ぎ、1522年、生存者わずか十数人とともにスペインへの帰還を果たしたことで、この航海は史上初の世界周航として完結した。地球が球体であり、西回りでアジアに到達できるというマゼラン自身の確信は、こうして彼自身の死後に証明されることになる。今日、南米大陸南端の海峡には彼の名が冠され、太平洋という名称も、彼が航海中に名付けたものが今日まで使われ続けている。
よくある誤解
誤解①「マゼランは世界一周の航海を自ら完遂した人物である」→ 実際は航海の途中、フィリピンで命を落としている
「世界一周を成し遂げた探検家」として広く知られているため、彼自身が地球を一周したと思われがちだが、実際には彼は航海の終盤、マクタン島での戦闘で命を落としており、実際に世界周航を完遂させたのは、彼の死後に指揮を引き継いだ部下エルカーノだった。
誤解②「マゼランは当初から一貫してスペインのために働いていた探検家だった」→ 実際は当初ポルトガルに仕え、自国から見放された末にスペインへ移った
スペインの偉業として語られることの多いこの航海だが、実際にはマゼラン自身はポルトガル貴族の出身であり、長年ポルトガル王室に仕えた末、自国の国王から計画への支援を拒まれたことをきっかけに、スペインへと活動の場を移している。
FAQ
Q. マゼランとはどんな人物ですか?
A. ポルトガル出身の航海者で、1519年から1522年にかけて行われた、史上初の世界周航を計画・指揮した人物です。航海の途中、フィリピンのマクタン島で命を落としました。
Q. なぜマゼランはポルトガルではなくスペインのために航海したのですか?
A. モロッコ遠征での汚職疑惑によって国王マヌエル1世の信頼を失い、西回り航路の計画への支援も拒否されたため、隣国スペインの国王カルロス1世に望みを託すことを決意したためです。
Q. マゼランはどのように亡くなったのですか?
A. 1521年4月27日、フィリピンのマクタン島で、現地の首長ラプラプとの戦闘に巻き込まれ、40歳から41歳で命を落としました。
Q. マゼランの死後、航海はどうなったのですか?
A. 部下のフアン・セバスティアン・エルカーノが指揮を引き継ぎ、1522年、わずかな生存者とともにスペインへ帰還を果たし、史上初の世界周航を完結させました。
まとめ
自らが正しいと信じた航路を証明するために、故郷を捨て、反乱を鎮め、未知の海峡を発見しながらも、その完遂の瞬間だけは見届けられなかった。マゼランの生涯は、偉業というものが、必ずしも本人の手によって完結するとは限らないことを物語っている。地球が丸いことを証明したのは、彼の航海そのものではなく、彼が命を落とした後も歩みを止めなかった、残された部下たちの意志だったのかもしれない。
