《モスクワのイギリス人》とは|マレーヴィチが仕掛けた非論理

《モスクワのイギリス人》は、ロシア・アヴァンギャルドを代表する画家カジミール・マレーヴィチが1914年に手がけた油彩画で、現在はアムステルダム市立美術館に所蔵されています。シルクハットをかぶった男の顔を、魚やロウソク、赤い矢といった脈絡のない事物が覆い隠すこの作品は、マレーヴィチが「非論理主義(アロギズム)」と呼ばれる様式を推し進めていた時期の代表作です。この記事では、これらの奇妙なオブジェが何を意味し、この絵がのちの《黒の正方形》へとどうつながっていくのかを見ていきます。

目次

基本情報

項目内容
作者カジミール・マレーヴィチ(1879〜1935)
制作年1914年
技法・素材油彩・カンヴァス
所蔵アムステルダム市立美術館(オランダ)
様式非論理主義(アロギズム)

一言でいうと

《モスクワのイギリス人》は、脈絡のないオブジェの数々によって人物の顔を覆い隠すことで、絵画に本来求められる論理的な意味のつながりをあえて壊そうとした作品です。マレーヴィチがのちに絵画の約束事そのものを解体していく前触れとも位置づけられています。

制作背景

非論理主義という試み

本作は、マレーヴィチの非論理主義(アロギズム)絵画を代表する作品です。この様式では、対象物同士の合理的な関連性を意図的に排除し、脈絡のないモティーフを一つの画面に詰め込むことで、鑑賞者の論理的な理解を宙吊りにする効果が狙われています。本作に登場する魚やロウソクと燭台、赤い矢、教会、椅子、木製のスプーン、銃剣といった事物は、いずれも互いに何の必然性も持たないまま画面に並置されています。

前衛オペラ『太陽の征服』との関わり

本作が制作された時期の直前、1913年には前衛オペラ『太陽の征服』が上演されています。台本を未来派の詩人アレクセイ・クルチョーヌィフが、音楽をミハイル・マチューシンが手がけ、マレーヴィチ自身は舞台装置と衣装を担当しました。このオペラは、のちにマレーヴィチの代表作《黒の正方形》が生まれる前史としても重要視されています。

挑発としての奇行

1914年ごろのマレーヴィチには、前衛芸術家らしい挑発的な振る舞いも見られました。赤い木製のスプーンを襟元に掲げてモスクワの街を歩いたという逸話が残されており、これは単なる奇行ではなく、芸術と生活、洗練された美術と粗野な素材とのあいだの境界を揺さぶる行為だったと考えられています。本作に描かれた赤いスプーンも、こうしたロシア未来派特有の挑発の印として理解されています。

見どころ

顔を覆い隠すオブジェの数々

画面の中心には、シルクハットをかぶった男の顔がありますが、その顔は白い魚をはじめとする複数のオブジェによって覆い隠されています。シルクハットと赤いスプーンは、いずれもロシア未来派が挑発の印として好んで用いたモティーフです。

断片化されたロシア語の文字

画面には「エクリプス(日食)」や「部分的」を意味するロシア語、あるいは「競馬協会」を思わせる文字の断片が散りばめられています。こうした言葉の破片は、意味の通った文章としてではなく、視覚的な要素の一つとして画面に組み込まれており、絵画と言語の境界を曖昧にする効果を生んでいます。

タイトルに込められた人物像

本作のタイトルは、イギリス人のような服装をしていたと言われる詩人クルチョーヌィフに由来するのではないかと推測されています。実在の人物への言及を、あえて非論理的な図像のなかに埋め込むという手法も、本作の興味深い仕掛けの一つです。

その後の展開

マレーヴィチはこの後、1915年に発表した宣言文『キュビスムからシュプレマティズムへ』のなかで、対象の再現よりも純粋な感覚や色、形、面そのものを上位に置く「シュプレマティズム(至上主義)」という新しい理論を打ち立てていきます。同年の「最後の未来派絵画展0,10」では、代表作《黒の正方形》をはじめとするシュプレマティズム作品が発表され、非論理主義の時代からさらに一歩進んだ、対象を持たない抽象絵画への到達が示されることになりました。

実際に見るには

本作はオランダ・アムステルダム市立美術館に所蔵されています。同館はロシア・アヴァンギャルドの重要な作品群を所蔵しており、マレーヴィチがシュプレマティズムに至るまでの過程をたどりながら鑑賞することができます。

よくある誤解

本作はしばしば「単なる奇抜なコラージュ風の絵」として片づけられがちですが、実際には非論理主義という明確な理論的立場のもとに制作された作品です。脈絡のないオブジェの並置は単なる思いつきではなく、絵画における論理的な意味のつながりそのものを問い直そうとする、当時のロシア未来派に共通する挑発的な芸術観を反映しています。

FAQ

Q. 《モスクワのイギリス人》に描かれた奇妙なオブジェにはどんな意味がありますか?
特定の合理的な意味を持たせず、あえて脈絡のない事物を並置することで論理的なつながりを壊す、非論理主義の手法を体現しています。

Q. タイトルの「イギリス人」とは誰を指していますか?
イギリス人のような服装をしていたとされる詩人アレクセイ・クルチョーヌィフを指しているのではないかと推測されています。

Q. 前衛オペラ『太陽の征服』とはどんな関係がありますか?
本作の制作直前に上演されたこのオペラで、マレーヴィチが舞台装置と衣装を担当しており、のちの《黒の正方形》につながる重要な前史とされています。

Q. マレーヴィチはこの後どんな様式に至りましたか?
1915年に「シュプレマティズム」という、対象の再現を離れた純粋な抽象絵画の理論を打ち立てました。

Q. 現在この絵はどこにありますか?
オランダのアムステルダム市立美術館に所蔵されています。

まとめ

《モスクワのイギリス人》は、脈絡のないオブジェを並べることで絵画の論理的な意味のつながりをあえて壊そうとした、マレーヴィチの非論理主義を代表する作品です。この挑発的な試みの先に、のちに彼が到達する《黒の正方形》とシュプレマティズムの理論が待っていたことを踏まえると、本作の持つ重みがより深く伝わってきます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次