ブリュッセルの王立美術館に、閉ざされたドアの前でこちらを見ずに立つ、白い衣装の女性を描いた肖像画がある。《マルグリット・クノップフの肖像(蘭:Portret van Marguerite Khnopff)》と題されたこの絵は、ベルギーの象徴主義画家フェルナン・クノップフが1887年に手がけたもので、モデルは画家自身の妹、マルグリットだ。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | フェルナン・クノップフ(1858〜1921) |
| 制作年 | 1887年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス(板に張り付け) |
| サイズ | 96×74.5cm |
| 所蔵 | ベルギー王立美術館(ブリュッセル、ボードゥアン王財団遺産基金より寄託) |
ある事件をきっかけに、妹だけをモデルに
クノップフは根っからの内向的な性格で、女性との交際もほとんどなかったと伝えられている。51歳で子どものいる未亡人と結婚したものの、3年で別れている。彼の人生において本当に重要だった女性は、母と妹マルグリットの2人だけだったとされる。
そのきっかけの1つとして語られるのが、あるスキャンダルだ。クノップフはかつて、ブリュッセルの歌劇場ラ・モネで活躍していた高名なオペラ歌手ローズ・カロンの肖像画を手がけたことがあった。しかし彼が所属していた前衛芸術家集団「レ・ヴァン(20人展)」の展覧会でこの絵が公開された際、カロン自身が自分の顔が裸体に描かれているのを見て激怒したという。傷ついたクノップフはこの作品を自ら破棄し、以後、妹マルグリットをほぼ唯一のモデルとして、自らの理想とする女性像を描き続けることになった。彼はマルグリットの顔立ちを、ギリシャの神々を思わせる角ばった造形へと変容させていったとされる。
「手の届かない理想」としての妹
本作は、クノップフが生涯大切にし続けた全身肖像とされている。マルグリットは閉じたドアの前に立ち、鑑賞者の視線を避けるように、別の方向へと目をそらしている。研究者のあいだでは、彼女の左腕が背中に回されている一方で、右肘は前方に折り曲げられており、まるで2本の腕が別々の人物のもののように見えると指摘されている。この不自然とも言える身体の配置は、手の届かない理想の女性という、クノップフが妹に投影し続けたイメージを象徴していると解釈されている。
見どころ

視線をそらす横顔
マルグリットの顔は正面ではなく、わずかに左を向いている。鑑賞者と目を合わせないこの構図が、近づきがたい神秘性を画面全体に与えている。
白一色の衣装と控えめな背景
彼女がまとう白い衣装は、装飾を抑えたシンプルな仕立てでありながら、静けさと気品を漂わせている。背景の淡い色調の壁と扉が、この白い衣装をいっそう際立たせている。
不自然に配置された両腕
左腕は背中側に回され、右肘は体の前で折れ曲がっている。この左右で異なる腕の動きが、どこか人形めいた、現実離れした雰囲気を画面にもたらしている。
繰り返し描かれ続けた「マルグリット」
クノップフはこの後も、マルグリットをモデルとした作品を数多く手がけている。1889年のパステル画《思い出(ローンテニス)》では、彼女の姿が7人分に複製されるようにして、物憂げな秋の風景のなかでテニスをする女性たちとして描かれ、互いに視線を交わすこともなく、孤立した雰囲気を漂わせている。また1898年の《香》(オルセー美術館所蔵)でも、彼女は聖職者風の重厚な衣をまとった姿で描かれている。クノップフは実物を見ながら描くことを嫌い、写真を資料として活用していたことでも知られている。
実際に見るには
本作はブリュッセルの王立美術館に、ボードゥアン王財団の遺産基金からの寄託作品として展示されている。同じくマルグリットをモデルとした《思い出(ローンテニス)》なども、あわせて鑑賞することで、クノップフがこの1人の女性にどれほど深く自らの理想を投影し続けたかがうかがえる。
FAQ
Q. 《マルグリット・クノップフの肖像》はどこで見られますか?
ブリュッセルの王立美術館に、ボードゥアン王財団の遺産基金からの寄託作品として展示されている。
Q. モデルは誰ですか?
画家自身の妹、マルグリット・クノップフである。
Q. なぜクノップフは妹ばかりをモデルにしたのですか?
以前手がけたオペラ歌手ローズ・カロンの肖像画をめぐるトラブルをきっかけに、以後は妹を理想の女性像を描くためのほぼ唯一のモデルとするようになったとされている。
Q. なぜ両腕の配置が不自然に見えるのですか?
左右の腕が別々の方向を向いていることで、現実離れした人形めいた雰囲気を意図的に作り出しているのではないかと解釈されている。
Q. マルグリットは他の作品にも登場しますか?
1889年の《思い出(ローンテニス)》や1898年の《香》など、クノップフの代表作の多くに彼女がモデルとして登場している。
まとめ
《マルグリット・クノップフの肖像》は、あるスキャンダルをきっかけに、画家が自らの妹だけを理想の女性像として描き続けるようになった、その出発点に位置する1枚だ。視線をそらす横顔と、どこか人形めいた両腕の配置。決して手の届かない理想を、クノップフは生涯かけて、この1人の女性の中に探し続けた。
