ニュートンとは
1642年12月25日(当時のユリウス暦、グレゴリオ暦では1643年1月4日)、イギリスの片田舎ウールスソープに生まれたニュートンは、ケンブリッジ大学在学中、ペストの流行で大学が閉鎖され、実家に戻っていた時期に、微積分学、光の性質、天体力学の基礎となる考えを、次々とまとめ上げた。1687年に出版した『プリンキピア』は、運動の3法則と万有引力の法則を打ち立て、近代科学の礎を築くことになる。晩年は王立造幣局長官として国の通貨改革にも携わり、1727年、84歳で世を去った。
科学がまだ「哲学」の一部だった時代
17世紀のヨーロッパでは、自然を数学的に説明しようとする試みが、ようやく本格的に始まったばかりだった。ガリレオが物体の運動を観察と実験で捉え直し、ケプラーが惑星の軌道を精密に記述していたが、それらをひとつの体系にまとめる仕事は、まだ誰も成し遂げていなかった。ニュートンが生まれた年、フィレンツェ近郊ではガリレオが世を去っている。バトンが渡されるように、新しい時代が始まろうとしていた。
生涯
父を知らずに育つ
ニュートンが生まれる3か月前、父はすでに亡くなっていた。母ハンナは、彼が3歳のとき再婚し、幼いニュートンを祖父母のもとに残して家を出ている。この経験が、後年の彼の、閉じた性格や人間関係の難しさに影響したのではないか、と語られることもある。
ケンブリッジへ
1661年、ニュートンはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学した。決して裕福な家の出ではなく、当初は他の学生の身の回りの世話をしながら学費をまかなう、苦学生の立場だった。
ペストが生んだ「驚異の年」
1665年、ロンドンでペストが大流行し、ケンブリッジ大学は閉鎖される。ニュートンは実家のウールスソープに戻り、1年半ほどをそこで過ごした。この、誰に急かされることもない時間の中で、彼は微積分学の基礎、光の性質についての実験、そして重力についての考えを、一気に深めている。リンゴが木から落ちるのを見て重力を思いついた、という有名な逸話があるが、実際にどこまで史実に基づくかは定かでない。少なくとも、この時期に何らかのきっかけがあったこと自体は、本人も後年語っている。
光学と反射望遠鏡
1668年、ニュートンは反射望遠鏡を製作した。鏡を使って光を集めるこの方式は、それまでのレンズ式望遠鏡が抱えていた色のにじみの問題を解決するもので、今日の主要な天体望遠鏡の多くも、この原理を受け継いでいる。彼はまた、白い光が実はさまざまな色の光の混合であることを、プリズムを使った実験で示した。
フックとの確執、そして沈黙
光の性質をめぐって、ニュートンは同時代の科学者ロバート・フックと激しく対立した。この論争のストレスもあってか、1678年、彼は神経衰弱に陥り、しばらく公の場から姿を消している。この時期、彼は錬金術の実験にものめり込んでいたとされ、水銀中毒がその不安定な精神状態に関係していたのではないか、という見方もある。
ハレーの訪問と『プリンキピア』
1684年、天文学者エドモンド・ハレーがニュートンのもとを訪れた。惑星がなぜ楕円軌道を描くのかという問いに、ニュートンがすでに数学的な答えを持っていることを知り、ハレーは驚く。この訪問がきっかけとなり、ニュートンは自らの理論を本格的にまとめ始めた。1687年、私費を投じて出版された『プリンキピア・マテマティカ』は、運動の3法則と万有引力の法則を体系化し、天体の動きと地上の物体の動きを、同じ法則で説明してみせた。
政治家、そして造幣局長官へ
1689年、ニュートンはケンブリッジ大学選出の国会議員となった。1696年には王立造幣局の監事に就任し、後に長官まで務めている。この職を、彼は単なる名誉職として扱わなかった。偽造貨幣の取り締まりに本気で取り組み、実際に何人もの偽造犯を、追い詰めている。1703年に王立協会の会長に選ばれ、1705年にはアン女王からナイトの称号を授けられた。生涯、結婚することはなかった。
最期
晩年のニュートンは、聖書の年代学や神学的な考察にも、多くの時間を費やしていた。彼の宗教観は、当時の正統的なキリスト教とはやや異なるものだったが、これは慎重に伏せられていたとされる。1727年3月31日(当時の暦では3月20日)、ロンドンのケンジントンで死去。ウェストミンスター寺院に葬られた最初の科学者となった。
なぜ重要な人物なのか
バラバラだった知識を一つにまとめた
ニュートン以前、天体の動きと地上の物体の動きは、別々の現象として扱われていた。彼はこれを、たった一つの重力の法則で説明してみせた。この統合こそが、彼の最大の功績だと言える。
実験と数学を両立させた
光学の研究では緻密な実験を、力学の研究では新しい数学(微積分)を、それぞれ武器にした。理論だけでも実験だけでもなく、両方を使いこなせたことが、他の同時代の学者との違いだった。
現場での実務能力も持っていた
造幣局長官としての仕事ぶりは、単なる学者の余技ではなかった。偽造犯を実際に追跡し起訴するなど、机上の理論家にとどまらない、実務家としての一面も持っていた。
主要な功績
- 運動の3法則。古典力学の土台となった、物体の動きに関する基本法則
- 万有引力の法則。天体の運動と地上の物体の落下を、同じ原理で説明した
- 微積分学。ライプニッツとほぼ同時期に、独立して考案した数学の手法
- 光のスペクトル分解。白色光が複数の色の光からなることを、実験で証明した
- 反射望遠鏡。色のにじみを解消した、新しい設計の望遠鏡
人物相関
- ハンナ・エイスコフ。母。ニュートンが幼いうちに再婚し、彼を祖父母に預けた
- ロバート・フック。光学をめぐって激しく対立した、同時代の科学者
- エドモンド・ハレー。訪問をきっかけに『プリンキピア』執筆を後押しした天文学者
- ゴットフリート・ライプニッツ。微積分学の発見の優先権をめぐり、生涯にわたって論争を繰り広げた相手
後世への影響
ニュートンが打ち立てた力学の体系は、20世紀にアインシュタインの相対性理論が登場するまで、200年以上にわたって物理学の標準であり続けた。日常的なスケールの現象を扱う限り、ニュートン力学は今でも十分に通用する。
現代とのつながり
橋を設計するときも、ロケットの軌道を計算するときも、多くの場面で今日使われているのは、いまだにニュートンの法則だ。相対性理論が必要になるのは、光速に近い速度や、極端に強い重力を扱うときに限られる。
よくある誤解
誤解①リンゴが頭に落ちて重力を発見した
有名すぎる逸話だが、リンゴが実際に彼の頭に落ちたという話は、後世の脚色である可能性が高い。彼自身は、庭でリンゴが落ちるのを見て、重力について考え始めたきっかけになったと語ったとされるが、それ以上の詳細な描写は、伝記作家たちが後から付け加えたものと見られている。
誤解②純粋な科学者で、他のことには関心がなかった
力学と光学の業績があまりに大きいため、彼を「科学一筋」の人物として思い浮かべがちだ。しかし実際には、生涯のかなりの時間を、錬金術や聖書の年代学の研究に費やしている。当時の科学と、こうした分野との境界は、今日私たちが考えるほど明確ではなかった。
年表
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 1642年 | ウールスソープで誕生 |
| 1661年 | ケンブリッジ大学入学 |
| 1665〜67年 | ペストによる大学閉鎖、実家で研究に没頭 |
| 1668年 | 反射望遠鏡を製作 |
| 1678年 | 神経衰弱、公の場から一時姿を消す |
| 1687年 | 『プリンキピア』出版 |
| 1696年 | 王立造幣局の監事に就任 |
| 1703年 | 王立協会会長に就任 |
| 1705年 | ナイトの称号を授与 |
| 1727年3月31日 | ロンドンで死去 |
FAQ
Q. アイザック・ニュートンとはどんな人物ですか?
A. 1642年生まれのイギリスの科学者・数学者。運動の3法則と万有引力の法則を体系化し、近代物理学の土台を築いた。
Q. なぜペストの流行が、彼の研究にとって重要だったのですか?
A. 大学が閉鎖され、実家で過ごした1年半のあいだに、微積分学、光学、重力についての考えを、一気に深めたためだ。
Q. リンゴの逸話は本当ですか?
A. 何らかのきっかけがあったこと自体は本人も語っているが、リンゴが実際に頭に落ちたという劇的な描写は、後世の脚色とみられている。
Q. ニュートンとライプニッツの関係は?
A. 微積分学をほぼ同時期に、それぞれ独立して発見しており、どちらが先だったかをめぐって、生涯にわたる論争を繰り広げた。
まとめ
大学が疫病で閉鎖されるという、誰にとっても不運なはずの出来事が、一人の青年にとっては、静かに考えを深める時間になった。世界を変える発見は、必ずしも研究室の中だけで生まれるわけではないらしい。
