《画家の家族の肖像(独:Bildnis der Familie des Künstlers)》は、北方ルネサンスの画家ハンス・ホルバイン(小)が1528年から29年ごろに手がけた作品で、現在はバーゼル美術館に所蔵されている。イングランドから故郷バーゼルへ帰った画家が、妻エルスベートと2人の子どもたちを描いたこの絵は、美化を排した率直な観察眼によって、当時の家族の現実をそのまま切り取った作品として知られている。今回はこの絵が生まれた背景と、絵に刻まれた家族の複雑な事情について見ていく。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ハンス・ホルバイン(小)(1497頃〜1543) |
| 制作年 | 1528〜29年ごろ |
| 技法・素材 | 混合技法・紙(輪郭に沿って切り抜き、菩提樹材に貼付) |
| サイズ | 約79.4×64.7cm |
| 所蔵 | バーゼル美術館(スイス)収蔵番号Inv. 325 |
| 描かれた人物 | 妻エルスベート・ビンツェンシュトック、息子フィリップ、娘カタリーナ |
一言でいうと
美しく理想化された家族像ではなく、疲れた表情の妻と幼い子どもたちを、感傷を排した率直な筆致で描き切った肖像画。長い別居生活を送った夫婦の関係を、静かに物語っているとも言われる1枚。
制作背景
イングランドから帰郷した時期に
ホルバインは1519年、バーゼルの画家組合に登録し、未亡人だったエルスベート・ビンツェンシュトックと結婚した。彼女には先夫との息子フランツがおり、ホルバインとのあいだにもフィリップ、カタリーナ、ヤーコプ、キュンゴルトという4人の子どもをもうけている。この絵は、ホルバインが最初のイングランド滞在から帰国した時期、バーゼルに滞在していたあいだに描かれたものだ。1528年8月29日には、この街に新たな住居も購入している。
紙を切り抜いて板に貼るという特殊な技法
この絵は通常の油彩画とは異なり、紙の上に描かれた後、人物の輪郭に沿って切り抜かれ、菩提樹材の板に貼り付けられるという特殊な技法で制作されている。3枚の紙片が水平に継ぎ合わされており、右側の2枚が左側の1枚よりもかなり幅広く裁断されている。板の右下には制作年を示す数字の一部「152(…)」が読み取れるが、最後の桁は切り取られてしまっている。
美術史家が「最も心を打つ肖像画」と評した1枚
美術史家ジョン・ローランズは、この絵を「美術史上最も心を動かされる肖像画の一つ」と評している。ホルバインは通常、モデルを控えめに、あまり感情を表に出さない形で描くことが多かったが、この絵ではエルスベートの表情に、当時の彼女が置かれていた孤独や疲労がありのままに映し出されているとされる。ホルバインは長年家族と離れて暮らしており、エルスベートは一人で子どもたちの世話を担っていた。
アメルバッハ・コレクションへ
この絵は数年間エルスベート自身の手元にあったとされ、1543年までにはチューリヒの肖像画家ハンス・アスパーの所有となった。アスパーは何度も売却の申し出を受けながらも手放さず、彼の死後になってようやく、収集家バジリウス・アメルバッハの手に渡っている。1661年、アメルバッハ・コレクション全体がバーゼル市に買い取られ、これが現在のバーゼル美術館の基盤の一つとなった。
見どころ

正面を向く母エルスベートの表情
画面中央、エルスベートは正面を向いて描かれ、その視線はやや右を向いている。目のまわりの疲れやたるみをそのまま描き込んだこの表情は、美化とは無縁の率直な観察に基づいている。
横顔で描かれた息子フィリップ
母の隣、画面下には息子フィリップが横顔で描かれている。エルスベートの手が彼の肩にそっと置かれ、親子のつながりが静かな仕草によって示されている。
母の膝に座る娘カタリーナ
画面右には、母の膝に座る幼い娘カタリーナが描かれている。彼女の左手の指先は、絵の裁断の際に切り落とされてしまっており、現存する部分からもとの構図の広がりを想像することができる。
聖母子像を思わせる構成
美術史家のなかには、この絵の構図が「聖母子と洗礼者ヨハネ」の伝統的な図像を思わせると指摘する者もいる。宗教画の枠組みを世俗の家族肖像に転用するという発想が、この絵にさりげなく織り込まれている可能性がある。
実際に見るには
本作はバーゼル美術館に所蔵されている。同館にはホルバインの他の代表作も多数収蔵されており、あわせて見ることで彼が生涯を通じて手がけた肖像画の作風の広がりを知ることができる。
よくある誤解
この絵はしばしば「幸福な家族の記念肖像」として単純に鑑賞されがちだが、実際にはホルバイン夫妻が長年離れて暮らしていたという事情や、エルスベートの表情に表れた疲労感などから、必ずしも理想化された幸福な家庭像とは言い切れない側面を持つ作品である。感傷を排した率直な観察こそが、この絵を単なる記念写真的な肖像画以上のものにしている。
FAQ
Q. 《画家の家族の肖像》はどこで見られますか?
バーゼル美術館(収蔵番号Inv. 325)に所蔵されている。
Q. 描かれている人物は誰ですか?
ホルバインの妻エルスベート・ビンツェンシュトックと、息子フィリップ、娘カタリーナである。
Q. この絵はどんな技法で制作されていますか?
紙に描かれた後、人物の輪郭に沿って切り抜かれ、木製の板に貼り付けられるという特殊な技法が用いられている。
Q. なぜこの絵は「感傷的でない」と評されるのですか?
妻の疲れた表情をそのまま描き込むなど、美化を排した率直な観察に基づいて制作されているためである。
Q. この絵はいつバーゼル美術館の所蔵になったのですか?
収集家バジリウス・アメルバッハのコレクションの一部として保存され、1661年にバーゼル市が購入したことで公共のコレクションに加わった。
まとめ
《画家の家族の肖像》は、理想化された幸福な家庭像ではなく、当時の妻の疲労までもありのままに描き出した、率直な観察に貫かれた1枚だ。長い別居生活を送った夫婦の関係を静かに映し出すこの絵は、単なる家族の記念画を超えた、人間味あふれる肖像画として今も見る者の心を動かし続けている。
