『百物語 笑ひはんにや』は、葛飾北斎が手がけた怪談シリーズ『百物語』の一図です。円窓から身を乗り出した老いた般若が、歯をむき出して笑いながら、ちぎれた赤子の首を指さしています。恐ろしい場面を、あえて笑顔で描いたところに、この絵の不気味さがあります。
基本情報
作者は葛飾北斎(1760?〜1849)、制作は江戸時代後期、天保2〜3年(1831〜32年)頃と見られています。形式は中判の錦絵で、サイズは縦25.5×横18.0cmです。版元は鶴屋喜右衛門、落款は「前北斎」とされます。東京国立博物館に所蔵されています。
『百物語』というシリーズ
江戸時代後期には、夜に人が集まって怪談を語り合う「百物語」が流行しました。この流行に目をつけた版元の鶴屋喜右衛門が、百物語を主題にした錦絵の揃物を、北斎に依頼したとされます。北斎は、読本の挿絵や『北斎漫画』などで、化物や幽霊を数多く描き、妖怪絵の名手として知られていました。
名前のとおり、全百図が構想されたと考えられていますが、確認されているのは5図だけです。「さらやしき」「笑ひはんにや」「お岩さん」「こはだ小平二」「しうねん」の5つで、途中で刊行が止まったものと見られています。
般若とは
「般若」は、もともと仏教の言葉で、真実の智恵を意味します。般若の面は、能『葵上』で、六条御息所の生霊が般若心経を恐れる場面から、嫉妬に狂う鬼女の仮面を指す名前になったと説明されます。口が耳まで裂けた顔は、怒りとも笑いともつかない表情を見せます。
見どころ|笑う老婆の般若

画面は、青く染められた背景に、大きな円形の窓が切り取られ、その中から般若が姿を現す構図です。頭には、角が生え、乱れた髪が顔を囲んでいます。目は大きく見開かれ、口は耳に向かって大きく裂け、歯がむき出しになっています。老婆のような顔は、皺だらけで、頬には血が飛んでいます。
般若は、片方の手に赤子の首を持ち、もう一方の手の長い爪で、その首を指しています。赤子の首は、白い顔に血を流し、頭には裂けた傷があります。小さな首と、笑う大きな顔との、対比が際立ちます。
文化遺産オンラインは、この絵を、鮮血の描写が陰惨で、恐怖心をかきたてるものと解説しています。また、解説書には、口だけでなく目元も下がっていて、笑いの狂気を強く表している、とする指摘もあります。
何を描いたのか
この般若が、特定の物語の場面なのかは、分かっていません。長野県に伝わる伝承「笑般若」を題材にした、とする説がありますが、詳細は不明です。また、割れたザクロを持つ姿が、鬼子母神を思わせる、とする解説もあります。鬼子母神は、他人の子をさらって食べていたと伝えられる鬼女で、のちに子供の守護神となった存在です。
『百物語』の5図は、「お岩さん」や「こはだ小平二」のように、元になる物語がはっきりしたものもあれば、本作のように、解釈が分かれるものもあります。
評価と復刻
美術作品としての評価は、必ずしも高くありません。美術史家の安村敏信は、5図のなかでは「さらやしき」と「こはだ小平次」を出色としたうえで、読本挿絵の時代にあった生々しさや熱っぽさが薄れ、「乾いた恐怖の世界」に至った、と述べています。
初版は、流通が限られていたと見られますが、一定の需要があったようで、明治26年(1893年)には、松井栄吉版の復刻版が作られました。
まとめ
『百物語 笑ひはんにや』は、赤子の首を前に、満面の笑みを浮かべる般若を描いた一図です。恐怖を、あえて笑いで表現した発想が、見る者の心に、強い違和感を残します。未完に終わった『百物語』のなかでも、特に印象の強い一枚です。

