湾岸戦争とは|冷戦後初の国際協調が示した「砂漠の嵐」を徹底解説

冷戦がようやく終わりを迎えたばかりのその時、東西陣営の垣根を越えた34か国もの国々が、たった一つの侵略行為を前に足並みをそろえた。この記事では、湾岸戦争がどのような経緯で始まり、国際社会がいかにして前例のない協調を実現したのかを見ていく。

目次

定義

湾岸戦争とは、1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻を発端に、翌1991年2月まで続いた、イラクとアメリカを中心とする多国籍軍との間の戦争を指す。冷戦終結直後というこの時期に、国際連合の安全保障理事会の決議に基づき、34か国を超える国々からなる連合軍が編成されたことは、国際的な協調による安全保障の実現という、当時としては画期的な事例となった。

具体例

湾岸戦争の展開は、以下のような具体的な事実からうかがえる。

  • 1990年8月2日、イラクは14万人の兵力と1万8000両の戦車をもってクウェートに侵攻し、わずか2日で全土を占領した
  • 同年11月29日、国連安全保障理事会は決議678号を採択し、1991年1月15日までにイラクが撤退しなければ武力行使を認める方針を示した
  • 1991年1月17日、多国籍軍による大規模な空爆作戦「砂漠の嵐作戦」が始まった
  • 同年2月24日から28日にかけての約100時間の地上戦を経て、クウェートは解放された

背景

1980年から1988年まで続いたイラン・イラク戦争を経て、イラクはクウェートに対して80億から100億ドルにも上る戦時債務を抱えていた。イラクはこの債務の帳消し、あるいは条件緩和を求めたが、クウェートはこれを拒否し、さらにOPECが定める石油輸出割当量の引き上げにも反対する姿勢を示していた。この対立の背後には、世界の石油埋蔵量の約20%を左右する、湾岸地域の石油資源をめぐる大きな利害関係が存在していた。

展開

侵攻と国際社会の即応

1990年8月2日、イラク大統領サダム・フセインは14万人の兵力と1万8000両の戦車をクウェートへ送り込み、わずか数時間でクウェート市を制圧、2日以内に全土を掌握した。国連安全保障理事会はただちに決議660号を採択して即時撤退を求め、8月6日には決議661号によって貿易禁輸措置を発動する。同月8日、イラクがクウェートの正式な併合を宣言すると、安保理は翌日、この併合を「違法かつ無効」と断じる決議662号を採択した。

砂漠の盾作戦という布陣

侵攻からわずか5日後の8月7日、ブッシュ大統領は「砂漠の盾作戦」の開始を命じ、サウジアラビア防衛のための米軍派遣を進めた。同年11月29日、安保理は決議678号を採択し、1991年1月15日までにイラクが撤退しなければ、「あらゆる必要な手段」の行使を認めるという、決定的な方針を打ち出す。この過程で、アフガニスタンからアルゼンチン、韓国に至るまで、34か国を超える国々からなる連合軍が編成されていった。この規模の多国籍軍は、第二次世界大戦以来最大のものとされている。

サダム・フセインの外交的な試み

期限が迫る中、サダム・フセインはイスラム世界からの支持を集めようとジハード(聖戦)を宣言する一方、パレスチナ問題との関連付けを図り、イスラエルの占領地からの撤退と引き換えにクウェートからの撤退を提案した。しかしこの試みは実らず、1991年1月時点で連合軍側には、アメリカ兵54万人を含む約75万人もの兵力が集結していた。

砂漠の嵐作戦という空爆

期限を過ぎてもイラク軍が撤退しなかったことを受け、1991年1月17日未明、多国籍軍は「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる大規模な空爆を開始した。ステルス爆撃機や巡航ミサイル、レーザー誘導型の「スマート爆弾」といった最新技術が投入され、イラクの防空網・通信網・兵器工場・製油所が次々と攻撃された。イラク空軍は早期に壊滅するか、戦闘への参加を避ける道を選んだ。同年1月18日からは、イラクがイスラエルへスカッドミサイルを発射し、イスラエルの反撃を誘発してアラブ諸国を含む連合軍の結束を崩そうと試みたが、イスラエルは報復を控え、連合軍の結束は揺るがなかった。

地上戦とクウェート解放

2月半ばまでには、空爆の焦点はクウェートおよびイラク南部の地上部隊へと移っていった。同年2月24日、「砂漠の剣作戦」と呼ばれる大規模な地上攻勢が始まり、約100時間に及ぶ戦闘を経て、2月27日にはバグダッド放送が国連決議の遵守を表明する。翌28日、正式な停戦が成立し、クウェートは解放された。この過程で、撤退するイラク軍の車列がクウェート市からの幹線道路上で攻撃を受けた「死のハイウェイ」と呼ばれる出来事は、その規模と実態をめぐって、今日でも議論の対象であり続けている。

現代への影響

湾岸戦争は、冷戦終結直後という時期に、国連安保理決議に基づく国際的な協調によって、一国の明確な侵略行為に対応した先駆的な事例として位置づけられている。この戦争にかかった費用は推定610億ドルに上ったが、そのうちの約540億ドルは、クウェートやサウジアラビアをはじめとする同盟国が負担している。この戦争を通じて確立された多国籍軍による軍事介入のモデルは、以後の国際安全保障のあり方に、長く影響を残し続けることになった。

よくある誤解

誤解①「湾岸戦争は、アメリカが単独で主導した軍事介入だった」→ 実際は国連決議に基づく34か国を超える多国籍軍による作戦だった

アメリカの存在感の大きさから、この戦争が事実上アメリカ単独の軍事行動だったと思われがちだが、実際には国連安保理決議678号に基づき、アラブ諸国を含む34か国を超える国々が参加する、真の意味での多国籍軍として編成されており、費用の相当部分も同盟国が負担していた。

誤解②「イラクのスカッドミサイル攻撃は、イスラエルの反撃を招き連合軍を分裂させた」→ 実際はイスラエルが報復を控えたことで連合軍の結束は保たれた

このミサイル攻撃がその意図通りの効果を上げたと思われがちだが、実際にはイスラエルが報復攻撃を自制したことで、アラブ諸国を含む連合軍の結束は崩れることなく維持され、フセインのこの狙いは実を結ばなかった。

FAQ

Q. 湾岸戦争とはどんな戦争ですか?
A. 1990年のイラクによるクウェート侵攻を発端に、1991年まで続いた、イラクと多国籍軍との戦争です。国連安保理決議に基づき、34か国を超える国々が参加する協調的な軍事行動として実施されました。

Q. なぜイラクはクウェートに侵攻したのですか?
A. イラン・イラク戦争で抱えた戦時債務の帳消しをめぐる対立や、石油輸出割当量をめぐる利害対立が背景にあり、湾岸地域の石油資源の掌握という思惑も大きく関わっていました。

Q. 砂漠の嵐作戦とはどんな作戦ですか?
A. 1991年1月17日から始まった多国籍軍による大規模な空爆作戦で、最新技術を駆使してイラクの防空網や兵器施設を攻撃し、戦争の勝敗を大きく左右しました。

Q. 湾岸戦争はどのように終わったのですか?
A. 1991年2月24日からの約100時間に及ぶ地上戦を経て、イラクが国連決議の遵守を表明し、同月28日に停戦が成立、クウェートは解放されました。

まとめ

冷戦の終結から間もないこの時期に、34か国を超える国々が一つの侵略行為を前に足並みをそろえたという事実は、国際協調による安全保障の実現がどこまで可能かを示す、貴重な一つの実例となった。約100時間という短い地上戦の裏側には、決議の採択から兵力の集結、そして外交的な駆け引きに至るまで、半年以上にわたる周到な準備が積み重ねられていた。この協調の記憶は、今も国際社会が危機に直面したときの、一つの参照点であり続けている。

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