ワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートに、凍った川の上をスケートで滑る紳士を描いた大画面の肖像画がある。《スケーター(英:The Skater、正式には Portrait of William Grant)》と題されたこの絵は、アメリカ生まれの画家ギルバート・スチュアートが1782年、ロンドン滞在中に手がけたもので、当時の肖像画の常識を覆す型破りな構図によって、彼の名を一躍広めることになった作品だ。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | ギルバート・スチュアート(1755〜1828) |
| 制作年 | 1782年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 235.5×147.4cm |
| 所蔵 | ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.) |
「肖像画よりスケート日和だ」という一言から
本作のモデルは、エディンバラ近郊コンガルトン出身の紳士ウィリアム・グラント(後のサー・ウィリアム・グラント)である。伝えられるところによれば、肖像画の制作のためにスチュアートのもとを訪れたグラントは、その日があまりに寒かったことから、肖像画のモデルを務めるよりもスケートをするのにうってつけの天候だと口にしたという。熟練したスケーターでもあったスチュアートはこれに同意し、2人は制作をひとまず置いて、ハイド・パーク内のサーペンタイン池へとスケートに出かけた。
この一件をきっかけに、スチュアートはグラントをスケート靴を履いた姿のまま、冬景色のなかに描くという着想を得た。背景にはウェストミンスター寺院の双塔が小さく望める構図が採用されている。
徒弟修業の終わりを告げた1枚
スチュアートは1775年、故郷ロードアイランドを離れてロンドンへ渡り、1777年からはアメリカ人の先輩画家ベンジャミン・ウェストのもとで徒弟として働いていた。本作は、彼が初めて手がけた等身大の全身肖像画であり、5年におよぶウェストへの師事の集大成となる作品でもあった。1782年の王立アカデミー展に出品されると(当時は「スケートをする紳士の肖像」という題で展示された)、その独創的な構図が大きな評判を呼び、スチュアートはほどなくして自らのアトリエを構えるまでになったと伝えられている。
見どころ

腕を組んで滑る堂々とした姿勢
グラントは両腕を胸の前で組んだまま、体を斜めに傾けて滑走している。初心者であれば両腕を左右に広げてバランスを取るところを、こうして腕を組んだまま滑るこの姿勢は、熟練したスケーターであることを暗に示す型とされている。なお、腕を組む点を除けば、この姿勢の基本はウェストのアトリエに置かれていた古代ローマ彫刻「ベルヴェデーレのアポロ」の石膏像に由来するとも指摘されている。
灰色の諧調で統一された画面
空、凍りついたサーペンタイン池、そして遠景のウェストミンスター寺院はいずれも灰色の濃淡だけで描かれている。色彩よりも明暗の諧調によって画面をまとめるこの手法は、これより約90年後にホイッスラーが手がけた《母の肖像(灰と黒のアレンジメント第1番)》とも通じる、静謐な統一感を生み出している。
背景で滑る「サーペンタインの挨拶」
画面奥には、他のスケーターたちが「サーペンタインの挨拶」と呼ばれる仕草を交わしながら滑る様子が小さく描き込まれている。この賑わいが、手前のグラントの堂々とした滑走ぶりを、いっそう際立たせている。
従来の肖像画には前例のない躍動感
当時のイギリスにおける「グランド・マナー」と呼ばれる伝統的な肖像画の様式には、これほど活発な動きを伴う人物表現の前例がなかったとされる。静止したポーズが当然とされていた肖像画の世界に、こうした躍動感を持ち込んだこと自体が、本作が大きな話題となった理由の1つだった。
実際に見るには
本作はワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートに所蔵されている。なお1878年に開かれたある展覧会では、本作が誤ってトマス・ゲインズバラの作品として展示されたこともあり、その独創性の高さゆえに、しばしば他の巨匠の手によるものと見紛われてきた経緯もうかがえる。
FAQ
Q. 《スケーター》はどこで見られますか?
ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートに所蔵されている。
Q. モデルは誰ですか?
エディンバラ近郊コンガルトン出身の紳士ウィリアム・グラントである。
Q. なぜスケート姿で描かれているのですか?
肖像画の制作日に、モデルであるグラント自身が「スケート日和だ」と口にしたことがきっかけで、2人が実際にスケートに出かけたためとされている。
Q. なぜこの絵は当時話題になったのですか?
静止したポーズが常識だった当時の肖像画に、躍動感のあるスケート姿という前例のない構図を持ち込んだためである。
Q. ギルバート・スチュアートはどんな画家でしたか?
ロードアイランド出身で、ロンドンでベンジャミン・ウェストに師事したアメリカ人画家である。本作の成功を機に自身のアトリエを構えた。
まとめ
《スケーター》は、肖像画の制作日に飛び出した何気ない一言から生まれた、当時としては前例のない躍動感あふれる1枚だ。腕を組んで堂々と滑るグラントの姿と、灰色の諧調で統一された静謐な背景。この組み合わせを選んだ時点で、スチュアートはすでに静止した肖像画の常識を覆すつもりでいたに違いない。
