一人の大統領の当選が、国を真っ二つに割った。1860年、奴隷制の拡大に反対するリンカーンが当選すると、南部の州は次々と連邦からの離脱を宣言し、わずか数か月のうちに、アメリカは同じ国民同士が銃を向け合う内戦へと突入していく。この記事では、南北戦争がどのように始まり、どのように奴隷解放という新たな意味を帯び、そしてどのように終わったのかを見ていく。
定義
南北戦争とは、1861年から1865年まで、アメリカ合衆国連邦政府(北部)と、連邦からの離脱を宣言した11の南部奴隷州(南部連合)との間で戦われた内戦を指す。奴隷制の存続と拡大をめぐる対立を根本的な争点とし、最終的に北部の勝利によって連邦の統一が保たれ、奴隷制も正式に廃止された。この戦争は、アメリカ史上最も多くの犠牲者を出した戦争として、今日でも記憶され続けている。
具体例
南北戦争の展開は、以下のような具体的な出来事からうかがえる。
- 1861年4月12日、サウスカロライナ州のフォート・サムターへの砲撃をもって、戦争が正式に始まった
- 1862年9月17日のアンティータムの戦いは、アメリカ史上最も血なまぐさい一日となり、2万3000人もの死傷者を出した
- 1863年7月1日から3日にかけてのゲティスバーグの戦いは、戦争全体の転換点となった
- 1865年4月9日、南部連合軍のリー将軍がアポマトックス・コートハウスでグラント将軍に降伏し、戦争は事実上終結した
背景
19世紀半ばのアメリカは、奴隷制の存続と、新たに加わる準州における奴隷制拡大の是非をめぐって、北部と南部の間に深い亀裂を抱えていた。数十年にわたり、両者の対立を先送りするための妥協が繰り返されてきたが、いずれも根本的な解決には至らなかった。1860年、奴隷制の拡大に反対する共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に選出されると、これに危機感を強めた南部の7つの州が相次いで連邦からの離脱を宣言し、ジェファーソン・デイヴィスを大統領とする「アメリカ南部連合」を樹立した。
展開
フォート・サムターと開戦
1861年4月12日早朝、南部連合軍はサウスカロライナ州チャールストン港のフォート・サムターへの砲撃を開始した。34時間に及ぶ砲撃の末、駐留していた連邦軍は降伏し、これが戦争の正式な始まりとなる。この事件をきっかけに、ヴァージニア・アーカンソー・テネシー・ノースカロライナの4州も新たに南部連合へ加わり、合計11州が連邦から離脱することになった。
血なまぐさい戦局
戦争が本格化した1862年、両軍は幾度も大規模な激突を繰り広げた。同年9月17日のアンティータムの戦いは、アメリカ史上最も犠牲者の多い一日となり、2万3000人もの死傷者を出している。この戦いの直後、リンカーンは奴隷解放予備宣言を発表し、この戦争に「奴隷制の終結」という新たな大義を与えることになった。1863年1月には正式な奴隷解放宣言が発効し、これは同時に、イギリスやフランスが南部連合を正式な国家として承認する可能性を封じる、外交上の効果も持っていた。
ゲティスバーグという転換点
1863年7月1日から3日にかけて、ペンシルベニア州ゲティスバーグでの戦闘は、戦争全体の流れを決定づける転換点となった。この戦いで北部軍はリー将軍率いる南部軍の北部侵攻を食い止め、およそ7000人の死者と5万1000人の総死傷者を出す激戦の末、勝利を収めている。同じ7月には、ニューヨークでは徴兵制への反発から暴動が発生し、100人を超える死者を出す事態にもなった。
総力戦と戦争の終結
1864年、グラント将軍が北部軍の最高指揮官に就任すると、南部連合の資源と補給網そのものを破壊する「総力戦」の戦略が本格的に展開されていく。追い詰められた南部軍は次第に劣勢に立たされ、1865年4月9日、リー将軍はついにアポマトックス・コートハウスでグラント将軍に降伏した。しかしその5日後の4月14日、リンカーン大統領は劇場で観劇中、俳優ジョン・ウィルクス・ブースによって暗殺され、戦争終結の喜びに水を差す悲劇となる。西部戦線での最後の降伏は同年6月2日、テキサス州ガルベストンで行われた。
現代への影響
南北戦争は、推定62万人から85万人という、アメリカ史上最悪の犠牲者数を出し、これは当時の人口の約2%にあたる規模だった。この戦争を経て、約390万人の奴隷が解放され、憲法修正第13条によって奴隷制そのものが正式に廃止されている。しかし戦後の「再建期」(1865〜1877年)を通じて実現しかけた人種平等の理想は、その後の白人至上主義的な暴力と政治的な妥協によって、大きく後退させられることになった。この結果、ジム・クロウ法に代表される人種隔離体制が、以後約90年にわたって南部社会を規定し続けることになる。この戦争がもたらした連邦の統一と憲法上の変化は、今日のアメリカという国家のあり方そのものを、根本から形作り続けている。
よくある誤解
誤解①「南北戦争は奴隷解放そのものを最初からの目的として始まった」→ 実際は当初は連邦の統一を守ることが主目的だった
「奴隷解放のための戦争」というイメージが強いため、開戦当初から奴隷解放が主目的だったと思われがちだが、実際にはリンカーンをはじめとする北部の指導者たちは、当初は連邦の統一を維持することを最優先の目標としており、奴隷解放が明確な戦争目的として掲げられたのは、1862年の奴隷解放予備宣言以降のことだった。
誤解②「奴隷解放宣言によって、すべての奴隷が即座に自由になった」→ 実際は地域によって自由の実現に大きな時間差があった
1863年の奴隷解放宣言によって、すべての奴隷が一斉に自由を得たと思われがちだが、実際には北部軍の支配が及んでいなかった地域では、この宣言はすぐには実行に移されず、たとえばテキサス州の奴隷たちが実際に自由を告げられたのは、宣言発効から2年以上が経った1865年6月になってからのことだった。
FAQ
Q. 南北戦争とはどんな戦争ですか?
A. 1861年から1865年まで、アメリカ連邦政府と、連邦から離脱した11の南部奴隷州(南部連合)との間で戦われた内戦です。奴隷制の存続をめぐる対立が根本的な争点となりました。
Q. なぜ南部の州は連邦から離脱したのですか?
A. 奴隷制の拡大に反対するリンカーンの大統領当選に危機感を強め、自らの奴隷制を維持する経済・社会体制が脅かされることを恐れたためです。
Q. 奴隷解放宣言はいつ、どんな効果を持ったのですか?
A. 1862年9月に予備宣言が出され、1863年1月に正式発効しました。これによって戦争に奴隷制廃止という新たな大義が加わり、イギリスやフランスによる南部連合の承認を防ぐ外交的な効果も持ちました。
Q. 南北戦争はどのように終わったのですか?
A. 1865年4月9日、南部連合軍のリー将軍がアポマトックス・コートハウスでグラント将軍に降伏し、事実上の決着を迎えました。その5日後にはリンカーン大統領が暗殺されています。
まとめ
一人の大統領の当選が国を二つに割り、62万人を超える犠牲を経て、ようやく再び一つに縫い合わされた。奴隷制という制度そのものは終わりを告げたが、その後に約束された平等の実現は、90年近くもの間、宙に浮いたままだった。戦場での勝敗が決まることと、そこで掲げられた理念が実際に社会に根付くこととの間には、想像以上に長い距離が横たわっている。
