ヴェルサイユ宮殿のプチ・トリアノン内、控えの食堂に、1輪のバラを手にした王妃の肖像画が掛けられている。《バラを持つマリー・アントワネット(仏:Marie-Antoinette dite « à la Rose »)》と題されたこの絵は、フランスの女性画家エリザベート・ヴィジェ=ルブランが1783年に手がけたもので、実はその前年に起きたある「事件」の後始末として描かれた1枚だった。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | エリザベート・ヴィジェ=ルブラン(1755〜1842) |
| 制作年 | 1783年 |
| 技法・素材 | 油彩・カンヴァス |
| サイズ | 116.8×88.9cm |
| 所蔵 | ヴェルサイユ宮殿(現在はプチ・トリアノン内に展示) |
「モスリンの肖像」が引き起こした騒動
本作が描かれる少し前、ヴィジェ=ルブランは同じ1783年のサロン(官展)に、マリー・アントワネットを白いモスリンのシンプルなドレス「シュミーズ・ドレス」姿で描いた肖像画を出品していた。当時この装いは、王妃の身分にふさわしくない、まるで下着のような服だとして批判を浴びることになる。加えて、輸入品のモスリン生地を用いたこの装いが、フランス絹織物産業への打撃になりかねないという経済的な懸念も指摘された。
こうした騒動を受け、ヴィジェ=ルブランは急遽、より伝統的で格式ある正装姿の肖像画を描き直すことになった。それが本作である。灰青色の絹地による「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」と呼ばれる伝統的な宮廷衣装をまとい、ダチョウの羽根とリボンで飾られた粉おしろいの髪、そして真珠の首飾りと腕飾りを身につけた王妃が、指先にそっとバラを1輪つまむ、より安全で威厳のある構図が採用されている。
王妃の専属画家としての6年間
ヴィジェ=ルブランは、1783年5月31日、国王の特別な計らいによって王立絵画彫刻アカデミーへの入会を認められている。同じ年、マリー・アントワネットからサロン出品用の肖像画制作を依頼されたのが、まさにこの経緯だった。彼女は1778年に最初の公式肖像画を手がけて以来、およそ6年のあいだにマリー・アントワネットの肖像を30点近く制作している。この王妃との親密な関係は、彼女に名声と富をもたらす一方で、後の彼女自身の身の安全をも脅かすことになった。1789年、革命の始まりとともに、王党派として知られていたヴィジェ=ルブランは、粗末な服に身をやつして娘とともにフランスを脱出することになる。
見どころ

そっとつままれた1輪のバラ
画面右手には、王妃が左手の指先で1輪のバラを優美につまむ様子が描かれている。この静かな仕草が、美と女性らしさを象徴する伝統的なモチーフとして、肖像画全体に上品な余韻を添えている。
ダチョウの羽根で飾られた髪型
頭部には、リボンと縞模様の布、そして大きなダチョウの羽根で飾られた、当時流行の高く結い上げた髪型が描かれている。この華やかな髪型が、批判を浴びた前作の簡素な装いとは対照的な、王妃としての威厳を強く印象づけている。
真珠の首飾りと腕飾り
首元と手首には、真珠の首飾りと腕飾りが控えめに、しかし確かな存在感を持って描かれている。過度な装飾を避けながらも品格を保つこの選択が、当時の批判を意識した、慎重な演出だったことをうかがわせる。
深い緑と青の庭園を背景に
背景には、深い緑と青で描かれた庭園の木々が広がっている。この落ち着いた色調が、絹地の淡い灰青色を引き立て、画面全体に静謐な気品を与えている。
実際に見るには
本作はヴェルサイユ宮殿の所蔵作品で、現在はプチ・トリアノン内の控えの食堂に展示されている。物議を醸した「シュミーズ・ドレスの肖像」や、ルーヴル美術館に所蔵される赤いベルベットのドレス姿の肖像などとあわせて見比べることで、当時の王妃の公的なイメージがいかに慎重に作り上げられていたかがうかがえる。
FAQ
Q. 《バラを持つマリー・アントワネット》はどこで見られますか?
ヴェルサイユ宮殿のプチ・トリアノン内、控えの食堂に展示されている。
Q. なぜこの絵は描かれたのですか?
同年のサロンに出品された「シュミーズ・ドレスの肖像」が物議を醸したことを受け、より格式ある正装姿の肖像画として描き直されたためである。
Q. 「シュミーズ・ドレスの肖像」はなぜ批判されたのですか?
王妃の身分にふさわしくない簡素な装いとされたことに加え、輸入モスリン生地の使用がフランス絹織物産業への打撃になるとの懸念が指摘されたためである。
Q. ヴィジェ=ルブランはマリー・アントワネットを何点描いていますか?
1778年から約6年のあいだに、30点近くの肖像画を手がけたとされている。
Q. ヴィジェ=ルブランはフランス革命後どうなったのですか?
1789年、王党派として身の危険を感じた彼女は、娘とともに粗末な服装でフランスを脱出した。
まとめ
《バラを持つマリー・アントワネット》は、前作の肖像画が引き起こした騒動を鎮めるために、急遽描き直された1枚だ。1輪のバラをつまむ優美な仕草と、格式ある衣装。王妃の公的なイメージを守るために、ヴィジェ=ルブランがどれほど慎重に一手一手を選んだかが、この静かな構図から伝わってくる。
