タチアオイとは|フリーゼキがモネの隣人として描いた庭の楽園

マドリードのティッセン=ボルネミッサ美術館(カルメン・ティッセン・コレクション)に、咲き誇るタチアオイの花に囲まれた女性を描いた油彩画がある。《タチアオイ(英:Hollyhocks)》と題されたこの絵は、アメリカ出身の印象派画家フレデリック・カール・フリーゼキが1912年から1913年頃、フランス・ジヴェルニーで手がけたものだ。彼はこの村で、あの巨匠クロード・モネの隣人として暮らしていた。

基本情報

項目内容
作者フレデリック・カール・フリーゼキ(1874〜1939)
制作年1912〜1913年頃
技法・素材油彩・カンヴァス
サイズ80.7×80.7cm
所蔵ティッセン=ボルネミッサ美術館(カルメン・ティッセン・コレクション、マドリード)

モネの隣人でありながら、その影響は受けず

フリーゼキはミシガン州オウォッソに生まれ、シカゴ美術館附属美術学校とパリのアカデミー・ジュリアンで学んだのち、1898年、24歳でフランスへ移り住んだ。初期の作品にはホイッスラー譲りの抑えた色調が見られるが、1900年以降はより明るく色彩豊かな印象派的な画風へと移行していく。

1905年の夏、ジヴェルニーの芸術家村で1か月ほどを過ごした彼は、同年10月にサラ・アン・オブライアン(愛称サディ)と結婚した。以後1906年から1919年まで、フリーゼキ夫妻(のちに娘も加わる)は毎年夏をジヴェルニーで過ごし、冬はパリのアパルトマンで暮らすという生活を続けた。彼らが暮らした家「ル・アモー」は、かつて画家セオドア・ロビンソンが住んでいた家で、モネの自邸のすぐ隣にあった。しかし、これほど近くに住みながら、フリーゼキとモネが親しく交わることはなく、モネから直接的な芸術的影響を受けることもなかったと伝えられている。

新聞さえ読まなかった庭の隠遁者

20世紀最初の20年間、フリーゼキはこの家に自らを閉じ込めるようにして、庭という小さな世界を描き続けた。都会の暮らしや当時勃興しつつあった前衛美術にはほとんど関心を示さず、新聞にすら目を通さないと公言していたと伝えられている。モネ自身がすでに自らの表現を大きく変化させていた時期にあってもなお、彼は19世紀後半の印象派的な視覚をそのまま守り続けた。日傘を差す優美な女性という、かつてモネやルノワールが1870年代から80年代にかけて好んで描いたモチーフは、1909年から1915年にかけてのフリーゼキの作品群にも繰り返し現れることになる。

見どころ

花のように伸びる女性の立ち姿

画面右手には、横顔を見せて花に手を伸ばす女性の姿が描かれている。モデルは彼の妻サディだとされ、その細く上へと伸びる立ち姿は、遠くから眺めれば、そのままタチアオイの1本のようにも見える構成になっている。

なめらかな量感と細やかな筆致の対比

女性の体は、途切れのないなめらかな塊として描かれている一方、背景を埋め尽くす花々は無数の小さな筆触によって、きらめくように表現されている。この量感と細やかさの対比こそが、フリーゼキが最も重視した造形上の工夫だった。

格子状に配された花々と小径

画面には、垂直に伸びるタチアオイの列と、それを横切る小径が、格子のような構成を作り出している。この幾何学的な骨組みのなかに、女性の柔らかな曲線が組み込まれることで、画面全体に静かなリズムが生まれている。

緑の鎧戸と格子垣のある庭

背景には、緑の鎧戸を持つ家と、花を絡ませた格子垣が描かれている。この庭の情景は、フリーゼキが同時期に手がけた《ユリ》や《ジヴェルニーの庭でのお茶の時間》といった作品にも繰り返し登場する、彼にとってなじみ深い舞台だった。

実際に見るには

本作はマドリードのティッセン=ボルネミッサ美術館、カルメン・ティッセン・コレクションに所蔵されている。同館には、同じジヴェルニーの庭を主題とした《ジヴェルニーの家》なども所蔵されており、あわせて見ることで、フリーゼキがこの小さな庭という舞台にどれほど繰り返し向き合っていたかが伝わってくる。

FAQ

Q. 《タチアオイ》はどこで見られますか?
マドリードのティッセン=ボルネミッサ美術館、カルメン・ティッセン・コレクションに所蔵されている。

Q. モデルの女性は誰ですか?
フリーゼキの妻サラ・アン(愛称サディ)ではないかとされている。

Q. フリーゼキとモネはどんな関係でしたか?
ジヴェルニーで自邸が隣り合っていたにもかかわらず、両者が親しく交流することはなく、モネからの直接的な影響も受けなかったとされている。

Q. なぜ女性がタチアオイのように描かれているのですか?
細く上へ伸びる女性の立ち姿が、周囲に咲くタチアオイの花と視覚的に呼応するよう構成されているためである。

Q. フリーゼキはどんな画家でしたか?
アメリカ出身でありながら生涯の大半をフランスで過ごし、ジヴェルニーの庭を舞台に女性像を描き続けた印象派の画家である。

まとめ

巨匠モネのすぐ隣に暮らしながら、フリーゼキが選んだのは彼とは違う道だった。都会からも前衛美術からも背を向け、ひたすら自分の庭だけを見つめ続けたこの頑固さこそが、《タチアオイ》という1枚を生んだ最大の理由だろう。

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