バーミンガム美術館に、小舟に身を寄せ合う若い夫婦を描いた楕円形の1枚がある。《イギリスの見納め(英:The Last of England)》と題されたこの絵は、イギリスの画家フォード・マドックス・ブラウンが1852年から1855年にかけて手がけたもので、当時のイギリスを揺るがしていた大規模な移民の波を、画家自身の顔を借りて描き出した作品だ。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作者 | フォード・マドックス・ブラウン(1821〜1893) |
| 制作年 | 1852〜1855年 |
| 技法・素材 | 油彩・板(楕円形) |
| サイズ | 82.5×75cm |
| 所蔵 | バーミンガム美術館 |
友人の旅立ちから生まれた着想
本作の着想は、ブラウンと親しかったラファエル前派の彫刻家トマス・ウールナーが、1852年7月にオーストラリアへ向けて旅立ったことにある。この年はイギリスからの移民が過去最多を記録した年でもあり、35万人を超える人々が新天地を求めて母国を後にしたと伝えられている。ブラウン自身もこの時期、経済的に困窮し「かなり自暴自棄になっていた」と述べたとされ、実際にインドへの移住を真剣に検討していたことが知られている。
画家自身と家族をモデルに
画面中央の夫婦は、ブラウン自身とその妻エマをモデルにしている。女性のケープの下に隠れて手だけがのぞく赤子は、2人の息子オリヴァーだとされ、背景に見える金髪の少女は娘のキャサリンだと伝えられている。船の名は「エルドラド号」で、画面には小さく書き込まれている。
ブラウンはこの絵の過酷な情景を忠実に再現するため、自宅の庭で、それも悪天候の日を選んで制作を続けたという。寒さで自分の手が青ざめるのを見て、まさにそれこそが絵に求めていた効果だと喜んだという逸話も残っており、あらゆる天候のなかで屋外に出て絵筆を握る彼の姿は、近隣の人々からも奇異の目で見られていたと伝えられている。制作にあたっては、ハムステッドの陶器店の2階にあったブラウンのアトリエではなく、その家の庭でモデルたちのポーズが取られた。
見どころ

険しい表情の男と不安げな女性
画面中央には、厳しい表情でこちらを見据える男と、その傍らで物思いに沈む女性の姿が描かれている。2人は互いの手を握り合いながらも、背後に遠ざかりゆくイギリスの海岸には目もくれない。この視線の向け方が、故郷への決別という重い決意を静かに物語っている。
遠ざかるドーバーの白い断崖
画面右奥には、イギリスを象徴するドーバーの白い断崖が、小さく霞むように描かれている。この断崖が視界から消えていく様子こそが、タイトルの「見納め」という言葉が指し示す、まさにその瞬間である。
ショールの下からのぞく赤子の手
女性の灰色のケープのすき間からは、彼女が抱く赤子の小さな手がのぞいている。厳しい船旅のなかにあってもなお守られている新しい命の存在が、画面全体に漂う重苦しさのなかに、かすかな希望の余地を残している。
傘に守られる家族と背後の乗客たち
夫婦は1本の傘によって風と飛沫から守られている。その背後には、身なりの異なる他の乗客たちの姿も描き込まれており、同じ船に乗り合わせながらも、それぞれに異なる境遇と表情を持つ人々の群像が、画面に厚みを与えている。
実際に見るには
本作はバーミンガム美術館の常設コレクションで見ることができる。ブラウンは後年、この構図をもとにした水彩画のレプリカを1864年から65年にかけて制作しており、これには娘キャサリンも下絵の一部を手伝ったとされる。あわせて見ることで、この主題がブラウン自身にとってどれほど重要なものであり続けたかがうかがえる。
FAQ
Q. 《イギリスの見納め》はどこで見られますか?
バーミンガム美術館に所蔵されている。
Q. この絵のモデルは誰ですか?
画家自身とその妻エマが夫婦のモデルとなっており、赤子と背景の少女は2人の子どもたちだとされている。
Q. なぜこの絵は描かれたのですか?
友人であるラファエル前派の彫刻家トマス・ウールナーがオーストラリアへ移民したことに着想を得たとされている。
Q. なぜブラウンは屋外で制作したのですか?
厳しい船旅の寒さと過酷さを絵に忠実に再現するため、悪天候の日を選んで自宅の庭で制作を続けたと伝えられている。
Q. ブラウンはラファエル前派のメンバーだったのですか?
正式なメンバーではなかったが、彼の作品にはラファエル前派に共通する自然への忠実さが色濃く表れている。
まとめ
《イギリスの見納め》は、友人の旅立ちに触発されながら、画家自身が経済的困窮のなかで移民を真剣に検討していた時期の心情を、自らの顔を借りて描いた1枚だ。遠ざかる白い断崖に目もくれず、互いの手を握り合う夫婦の姿を、ブラウンは故郷を後にする重い決意と、それでもなお守られる新しい命へのかすかな希望、その両方から目を逸らさずに描き切った。
